郷里の民話-「鶴の恩返し」
久しぶりに「遠野物語・昔話・民話」カテゴリー記事です。
『鶴の恩返し』の昔話は子供の頃からどなたもご存知のことでしょう。全国各地にこの話は幾つも分布していると言われています。が、しかしそんな中、私の出身町である山形県(旧)東置賜郡宮内町(現・南陽市宮内)に伝わる『鶴の恩返し』は、最古の部類に入ると言われているようです。
「♪今日も昨日も 雪の空」という『早春賦』さながらのこの季節、各地に飛来している鶴たちが再び北に帰って行かないうちにと、今回ご紹介することにしました。
かく言う私自身、郷里町の同民話を知ったのは比較的最近のことなのです。
当ブログ開設年の2008年、『郷里の民話「真心の一文銭」』を記事にする際、南陽市関連施設「夕鶴の里資料館」のホームページを参照したり、同施設から資料メールをお送りいただいたりしました。その時初めて、宮内町漆山地区に『鶴の恩返し』が伝えられていることを知ったのです。
『真心の一文銭』の方は、宮内に古くからある熊野神社の鐘楼の梵鐘(昔々、明治までは神仏習合で「熊野大権現」と呼ばれ仏式の鐘もあった。今も残されている)が古くて痛んだため新たに鋳造することにした折りのお話です。私も地元の(「おぐまん様-熊野神社に隣接する)宮内小学校高学年時、学校内でこの物語を描いたスライド映写を見た記憶があります。しかしまさか『鶴の恩返し』までとは!
中学3年の冬には、この民話を下敷きにした木下順二の戦後間もない頃の名戯曲『夕鶴』(昭和24年10月初演、主演:山本安英)を国語の授業で習いました。しかしその時も、先生から我が町の漆山地区発祥民話のお話はなかったと思うのです。
なぜなのでしょう。そういえば(こちらも以前何度か記事にした)童謡『ないしょ話』の作詞者・結城よしをが宮内町の出身(同童謡作詞は19歳の時)であることもまったく知らず、「結城よしをは私の叔父です」という宮内出身の妙理様からのメールで初めて知ったのでした。なお結城よしをは、記事でも紹介しましたが、戦争に取られ、病を得て九州小倉病院で24歳で亡くなりました。が、地元町の小中学校を通してただの一度も、結城よしをの事跡を学校でも近所の大人たちからも教わった記憶がないのです。
思うに、私の子供時代の昭和30年代は、まだ先の戦争に近接していた時代でした。現に私がお世話になっていた町立母子寮には、昭和30年代前半頃、子供連れの戦争未亡人が何人かいたように、敗戦のショックをまだ引きずっていました。加えて戦後の価値観のひっくり返りもあいまって、国民の意識はわが国に勝った欧米のハイカラな思想に向かいがちだったのかもしれません。そのため我が郷里のみならず、各地方に昔々から伝えられてきた古き良き伝統芸能、習俗、昔話、民話などは軽んじられていた時代だったのかもしれません。
翻って、戦後は民俗学が新たな展開・発展を見た時代でもあり、昭和30年代から40年代は特に全国の民話蒐集が盛んに行われたようです。しかし庶民レベルまで下りて行くにはもう少し時期が必要でした。その時期とはずばりバブル崩壊です。その出来事により、関東大震災クラスの巨大地震十個分という数百兆円ほどが一瞬にしてポシャってしまったわけです。それによって、それまでの「♪24時間働けますか ビシネスマン~ ビシネスマン~ ジャパニーズビシネスマン~」(当時のリゲインCMソングより)式の過労死デッドライン超オーバーの凄まじい憑き物が落ち、多くの人がハッと我に返ったのです。
その表れだったのでしょう。それ以降、長く音信のなかった郷里の小中高校からの同窓会開催のお知らせや関東居住者対象の高校同窓会や郷里町出身者の集いのお知らせなどが、私の下にも頻繁に来るようになったのです。今に続いている全国的な「郷土おこし」「町おこし」がその頃から始まったものと考えられます。
「脚下照顧」。それまで日本人としてのアイデンティティ喪失状態だった多くの国民が、それぞれの郷土の古き良き伝統文化に再び目を向けはじめたことは大変意義のあることだと思うのです。その意味で、国民の知恵はバブル崩壊という大災厄をポジティヴな意味に転換しようと試みてきたと捉えるべきなのでしょう。
と、余計なことを長々と述べてしまいました。
こういう次第で、近年結城よしをの『ないしょ話』歌碑が郷里町駅頭に建ち、市ホームページでもしっかり紹介され、またその一環として『鶴の恩返し』などの民話が掘り起こされ、それを元にした市の関連施設「夕鶴の里資料館」が開設されているわけです。
ということで。「夕鶴の里」ホームページに掲載されている『鶴の恩返し』と、それにまつわる事跡を以下に転載します(同内容が市のホームページにも)。
とうびんと。 (とは、東北地方で広く使われる、「これでお終い」という意味の物語の結びの言葉。)
(大場光太郎・記)
*
山形県南陽市の西部、漆山地区を流れる織機(おりはた)川のそばに、古くから民話「鶴の恩返し」を開山縁起として伝承している鶴布山珍蔵寺があります。この地区には、鶴巻田や羽付といった鶴の恩返しを思い起こさせる地名が残り、明治時代には製糸の町として栄えました。 地域に口伝えで残されてきた鶴の恩返しをはじめとする多くの民話を、これからも伝えていくために夕鶴の里資料館、語り部の館がつくられました。
山形県南陽市の漆山地区には、古くから鶴の恩返し伝説が伝わっています。その「鶴の恩返し」伝説は江戸時代の古文書に書き記されており、 記述としては日本で最も古いものです。現在でも、漆山には、鶴巻田、羽付、織機川などの鶴の恩返しにちなむ古く からの地名が数多く残されています。また、鶴の羽で織った織物を寺の宝物としたと伝えられる「鶴布山珍蔵寺」という古刹があり、その梵鐘には鶴の恩返し伝説が描かれています。
鶴布山珍蔵寺縁起 (鶴の恩返し)
昔々、おりはた川のほとり二井山に、金蔵と申す正直者が住んでいました。宮内の町へ出た帰り道、池黒というところで若者が鶴一羽しばっていじめていました。金蔵はあわれに思い、あり金をはたいてその鶴を買い求め、なわをほどき放してやりました。鶴はよろこんで大空を舞いどこかへ飛んで行ってしまいました。やがてその夜、金蔵の家にすごくきれいな女が現れて、私をあなたの妻にしてください、何か働かせてくださいと、何べんことわってもかえらないので、仕方なく置くことにしました。その女は織物(おりもの)が上手で、織(お)った布はとても高く売れました。
ある日のこと、女が「だんなさま、私はご恩返しに、あるものをあげますから、7日の間、決して私の部屋をのぞかないでください。」といって、その日から離れにこもったきり、夜も昼も、コットンコットンという音が続きました。7日目の夜のこと、金蔵はまちきれずに、いったい何を織っているのかとしのび足で離れに近寄り、窓のすきまから中をのぞきました。とたんに金蔵はあまりの恐ろしさに「あっ」と声を出しました。それもそのはず布を織っているのは女でなくて、やせおとろえた一羽の鶴が、己の羽毛をむしりとっては織り、むしりとっては織り、すでにはだかになっているではありませんか。
金蔵の叫び声に、機(はた)は止まり、その羽毛のない鶴はさびしく言いました。「だんなさま、なぜ見ないでくださいといった私の言葉を、お破りになったのですか。私はごらんのとおり、人間ではありません。実はこのあいだ、あなたに助けられた鶴でございます。私がいま織っているのは、ご恩返しに私の毛でつくった「おまんだら」です。これが私の形見でございます。・・・さようなら」といって消えてなくなりました。その後、金蔵は感ずるところがあって僧となりました。それで金蔵寺であった寺が、その宝物の名をとり、鶴布山珍蔵寺と改め称したと申します。また金蔵が助けたのは、つるはつるでもつると申す京あたりの女織師で、それが尊いおまんだらを織ったという説もある。(佐藤七右衛門「池黒村付近の伝説私考」より)
※ 記載内容は、南陽市市史 民俗編から転用されています。
鶴布山珍蔵寺
珍蔵寺は、鶴女房の夫だった金蔵が仏門に帰依したのが開基という伝承となっており、鶴の毛織物が寺の宝にされていたという言い伝えが残されています。伊達政宗の時代にはすでに名刹として知られていました。境内は山門と庭園が調和し、禅寺の雰囲気が色濃く、心が洗われるような気がする空間です。また寺の梵鐘にも鶴の恩返しが浮き彫りにされています。
【所在地】〒992-0474 山形県南陽市漆山1747-1
大きな地図で見る
【注記】
1600年の関が原合戦で豊臣側に味方した(上杉景勝や直江兼続など)上杉藩が徳川家康の命で移封してくるまで、現在の米沢市、長井市、南陽市などを含む「長井庄」は、一時蒲生氏郷や伊達正宗の領地でした。
http://nansupo.ddo.jp/nanyo-cl/yuduru/
南陽市ホームページより「南陽市の民話と伝説」
http://www.city.nanyo.yamagata.jp/minwadensetu/338.html
山形県南陽市|夕鶴の里:民話028「鶴の恩返し」
( 南陽市まるごと案内所 ) (語り:語り部・島貫貞子氏)
郷里版切り絵アニメ『つるのおんがえし』(「語り」つき)
(以上、転載終わり)
最近のコメント