『キッド』 90年前のチャップリンの長編 - 映画の見方

『キッド』 90年前のチャップリンの長編

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)もどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。



手塚治虫が、漫画の描き方をチャップリンサイレント映画から習ったということをどこかで読んだんですが、

チャップリンについて、今まで、私、あんまり理解しておりませんでした。申し訳ございません。

人間愛にあふれる云々みたいな言い方がされるのが、気に触って、あんまり好きでなかったんですが、

youtubeで見てみますと、これがなかなかいい。

一時間を超える長編映画が出来てから、十年経っていない映画なんですが、
既に、ここには、恣意的な−>方向の流れが存在します。

あらすじはと申しますと、
売れない画家に捨てられた女が出産したが、どうしようもなくてその子を捨てる。そしたらチャップリンがひょんないきさつからその子を拾って育てる。

そういう話です。

あらすじとはそういうものなんですが、あらすじ=物語の目的 ではないのですね。
あらすじは、誰が見ても分かるものですけれども、シドフィールドが言うような主人公が追求する欲求とは異なるものです。
あらすじではなく、その主人公の欲求を動画面に描いていくのかが映画という表現手段でして、
私の電波ブログでは、その欲求の追求は、画面上の−>の方向として目に見える、というザックリした理論です。



子供を捨てて去っていく母親。<ー方向に進む。
子供を捨てることをポジティブに見ていない映画ですから、<ー方向です。



しょうがなく子供を引き取ることになるチャップリンー>の方向です。物語の目的はこのライン上にあります。



サイレント映画の特徴として、頻繁に画面に字幕が出てきます。そして、文字を読む方向は−>、そして雲の動く方向も−>
画面の方向と文字の方向を揃えておくと、見ていてストレスがありません。つまり、文字を読む方向に画面を進行させると、ストレスが少なく、見ていて感じがいい訳です。

また、物語が−>方向に進行するということは、時間も画面の上をー>方向に流れているわけです。
だから、「そして…年が過ぎた」という画面では、ー>の動きがふさわしのです。



最後のシーン。母親とキッド、そしてチャップリンが一堂に会すハッピーエンド。そのシーンに乗り付けてくる車は、ー>向きです。


では、この物語の目的とは、母と子の再開なのだろうか?と言うと、それは間違いではないのでしょうが、おそらく映画が表現するものは、もっと複雑なものなのではないでしょうか。

この当時では、画面を恣意的にー>に流すという発想がまた確立されていませんでした。
チャップリンでさえ、この四年後の『黄金狂時代』では、どっちに画面が進むのかよくわからない映画を撮っています。

それに、1923年の超大作『十戒』はこんな感じです。
十戒 23年

更には、戦艦ポチョムキンソ連映画なんて、崩壊するまで、ー>方向に画面進行させる技法は少数派だったんじゃないでしょうか。


つまり、まだ映画が、ー>方向に画面を流すことを思考錯誤していた時代の映画です。

あっ、映画とは、成り行き上ー>に登場人物が進んでいく、というものではなくて、
ー>方向がハッピーエンドの道であり、そこに進めるか進めないかの葛藤を画面に表現する、というもんです。

まだ、この技法の確立されない時期の映画ですが、いくつかのシーンでは、かなりはっきりした移動シーンがありますので、そのいくつかの移動シーンを統一方向とすることで、この映画の方向は成り立っているようです。


金持ちの家の前に止めてある車に子供を置き去りにして、逃げ去る母親。


そして、その車に戻って、子供を取り返そうとしたら、もう車はいなくなっていた。


この一連の場面では、車の位置が基準となり、そこから去る、そこに戻るという行為がなされます。
つまり、行った道を戻ることを画面で表すには、さっきと画面上を逆の方向に歩けばいいってことになります。

「そんなん当たり前じゃん」とか思われる方もいると思いますが、
でも、言われてみるまで思ってもみなかった人がほとんどなのではないでしょうか?




子供が石を投げて窓を割り、そこに「たまたま居合わせた」ガラスを背負ったチャップリンが有料で修理するという段取りです。



さすがにこれは反社会的行為ですわ。それ故か、医師を投げる方向は<ーとネガティブです。


子供が孤児院に引き取られていく。


子供を乗せたトラックに追いつくために、屋根を上を歩いてショートカットするチャップリンー>


サイレント映画の時代は、演劇舞台を正面から映すカットがかなりの割合を示しますけれども、
このように動きを伴うシーンもちゃんと挟まれています。

そして、それらいくつかのシーンの進行方向をポジティブならー>、ネガティブなら<ーにまとめておくと、映画の表現力が増すのではないか、

更に言うと、動きを伴わないカットでも、ネガティブとポジティブの方向を統一しておくと、なおいいのではないか、
そういう風に考える人が出てくるのは当然なことなのではないでしょうか。
たぶん、このころ、編集は、映画会社に雇われた女性スタッフが適当にやっていたんじゃないでしょうか。

長ったらしいフィルムから所定のコマを探し出し、そこにハサミを入れてつなげるのは根気のいる作業だったらしく、気の長い女の人向けの仕事だったそうです。
それゆえ、あんまり深いこと考えてやられていたわけではなさそうですが、それでも、というか、それゆえに、このような方向を統一する編集方針が映画の中で育っていったのではないでしょうか?



子供を捨てる母親、いんちき商売でその日暮らしのダメ人間、
よく考えると、この映画の大人って碌でもない人たちじゃないですか、それと比べると、子供は、まだそういう世間の垢に染まらず、日々楽しく前向きに生きています。

だから、キッドの画面上の定位置は向かって左。


私がこの映画を見て、チャップリンのことを見直した、というか自分のそれまでのアホさ加減を悔いたのは、この画面上のポジショニングです。


コメディーとトラジェディーは紙一重とは言いますけれども、チャップリンが、物語の目的を追求するポジションをキッドの方に譲っているのは、自分には目的を追求する資格がないと考えた上でのことなのでしょう。
彼の演じる浮浪者というのは、お気軽で無責任に見えますけれども、目的を見据えた上で行動する立場を放棄しているわけです。

基本的に、彼の映画というのは、そういう考えに則ったものであり、その通常の殻を破って、前向きなことを主張すると、『独裁者』のラストシーンのように、「突如、この人、どうしたんだ?」みたいに思われるんじゃないでしょうか?

チャップリンが演じ続けてきた役の、悲しさ、つまり目的のない人生を送ることなんですが、それを平然とこなしてきたところに彼のダンディズムみたいなものを感じてしまうのですね。



子供を捨てた母親が嘆くポジションは、向かって右。彼女には子供と一緒に暮らすという道が閉ざされているのですから、物語の目的の方向を向くことができません。謂わば、この物語では、向かって右は嘆きのポジションです。


自分の子供のことを思い浮かべると、「黒人の子供であっても」同じくらいの年頃というだけで小遣いあげたくなってしまう。


そのように考えると、このシーンでは、創意工夫の面白さ滑稽さを表しているように見えますが、
ここでは、本来子供に乳を与える温かい母親が居るべきポジションに、ポットしかないという「不在」を表現しているのでしょう。
「母の不在」としてこのシーンを見てみると、結構悲しくなってきます。


子供を失ったあとのチャップリン。当然のごとく、嘆きのポジショニングです。


孤児院行きのトラックからキッドを連れ出し、その後家にも戻れず木賃宿に宿泊。しかし、宿主が新聞に掲載された「キッドを見つけてくれた人には百万円」の広告を見て、キッドをチャップリンから盗み出す。


蓮實重彦が、立教大学で教師していたとき、黒沢清ら学生に、『未知との遭遇』はどんな映画でしたかと質問して、「ドアが十三個出てきました」「ハイ正解」というような授業をしていたそうなんですが、

ドア十三個画面に出てきたら、どうなんですか?とは思うんですが、実のところ、私も映画を似たような見方しています。もっとも、左右の画面の方向に特化した見方ですけれども。

蓮實重彦の嫌なところは、嫌味な文体というのもありますが、理論を筋道立てて説明していないのに、やたら偉そうな物言いというのがあります。

いみわかんないんですよね、ドアが13個とかいきなり言われても。

ただしかし、そういう見方に近い見方をしていると、いろいろ気づくことがあるわけでして、

このチャップリンから子供を盗んで賞金をもらいに行く男の行程は、−> <ー ーー> <ーー と短い時間の間に四回も進行方向が切り替わるんですよ。

進行方向に着目して画面を見ていると、これは非常に目に付くのですね。
物語は、この結果、キッドが母親と再開して、ハッピーエンドへとつながっていくのですが、
結局何がいいことなのか人間にはわかりにくいという「塞翁が馬」の精神をこの紆余曲折で表現しているのだろう、と私は感ずる次第。

そこまで明確に意識しなくとも、サブリミナル的には見ている人、だいたい似たようなことを感じるのではないでしょうか。

そんなことを考えてから、妄想の世界で天使になるシーンを見てみますと、いろいろ思い当たることがあります。

うちひしがれているチャップリンの前にドアが開いて、キッドが現れる。
チャップリンにも天使の羽が生えていた。


チャップリンの日常の周囲の人たちみんなに天使の羽がある。


それでも、キッドを失ったチャップリンは、死んだも同然。


つまり、浮浪者が子供を拾ったことで、生きがいを見出し、人に優しくすることを学んだとき、彼は天使になったわけです。そして天使になった人から見れば周囲の人はみんな天使だったということなのですね。
この天使の中に、さっきの子供を盗んでいったおっさんも含まれています。
賞金に目がくらんで子供を盗んでいくことは正しいことのはずはないのですけれども、
この映画は、そういう倫理観についての映画ではないのでしょう。
もともと「チャップリン親子」も稼ぐために近所の窓ガラス割ったりしていますし、お互い様です。


子供を拾っただけのことで、自分は天使になり、周囲は天国になる、そしたら子供を拾う前の生活は地獄だったのか?というと、チャップリンの映画は晩年までそういうことをお首にも出さなかったのですが、
そういうことだったのでしょう。
そういう地獄を前提とした上で、チャップリンは、あのヘラヘラしたパントマイムを続けていた、と考えると、
そのダンディズムには、敬服せざるをえません。

そのように考えると、もう、最後のラストはただのつじつま合わせで、なくてもいいんじゃないかとさえ思えてきます。

チャップリンと母親、二人はあの後どうなるというんでしょう?どうもこうもなりようがないじゃないですか、マジな話。


映画では、ー>の方向が執拗に描かれます。その方向を描く要素は、母親だったり、子供の視線だったり、チャップリンの子供を取り返そうとする暴走だったりします。
そして、それらいくつかの要素の最大公約数的なものをはじき出すと、
その映画のテーマが浮かび上がる、私はそのように考えております。

そして、それは意図したテーマじゃないと映画監督が言ったところで、そのような言い方は許されない、そのようにさえ私は考えているのですね。

だって、映画とは、右と左にしか動けない平面上での物語なのですから。


『キッド』の場合、これは「偽りのない優しさ」についての映画なのではないでしょうか。

そして、そのように私が考えることは、おそらく妥当なのであろうことは、開始から本の数分目のキリストのモンタージュにより示されているようです。

救世院の病院で出産したあとに母親が見る幻影としてのキリスト。

もちろんー>向き。
この目的を叶えることは茨の道を進むことになるというわけですか。

このキリストの幻影を細くするかのように、三十分目位のところで、聖書の言葉が出てきます。

「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」