オリジナル版から30分の新作カットを追加した改訂増補版。
「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」(2019日)ジャンルアニメ・ジャンル人間ドラマ・ジャンル戦争
(あらすじ) 昭和19年、広島市から海軍の街・呉に嫁いできた18歳のすずは、夫の周作とその家族に囲まれながら徐々に新しい生活に慣れてきた。ある日、道に迷っていたところを遊女のリンに助けられる。これをきっかけに二人は仲良くなっていくのだが…。
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(レビュー) 2016年に製作された
「この世界の片隅に」(2016日)に約30分の新作を追加して作られたアニメーション映画。
自分はすでに前作を観ていたので、今回は何が追加されているのか?そこを中心に鑑賞した。
まずはっきりと分かるのは、すずとリンのエピソードがかなり多く追加されたことである。前作では数シーンしかなかった二人の交流が今回は大幅に増えている。結果として、これらが追加されたことによって、前作で不透明だった周作とリンの関係がはっきりと分かり、大変飲み込みやすい映画となった。
また、すずの妻としての嫉妬も掘り下げられたことで、前作よりも更にエモーショナルなドラマになったような印象を受けた。
聞けば、今回の新作部分は、こうの史代の原作漫画にもあったそうで、監督の片淵監督は前回泣く泣くカットしたそうである。前作同様、今回もクラウドファンディングによって資金が集められたそうだが、こうして自分の思い描いていたパーフェクトな形で作品を世に送り出すことができたことは作家冥利に尽きるのではないだろうか。ここまで多くの人々に後押しされた作品もそうそうないだろう。そういう意味では「この世界の片隅に」という映画は大変幸せな作品だと言える。
これまでにも監督本人の手によって再編集された、いわゆる完全版(ディレクターズカット版)と言われる映画はたくさん作られてきた。中には成功しているものもあれば、逆に失敗しているものもある。
例えば、あの名作「ニュー・シネマ・パラダイス」(1989伊仏)にも完全版(ディレクターズ・カット版)は存在する。オリジナル版は映画賛歌的なメッセージを押し出した作りだったが、完全版では青年に成長した主人公のロマンスパートが大幅に追加され、ある種青春ドラマのような趣になっていた。どちらがいいかは好みの問題であるが、自分はあの作品は愛すべき<映画>への郷愁を謳い上げた作品として受け止めていたので、どうしても完全版は冗長という感じを持ってしまった。
SF映画の傑作「エイリアン2」(1986米)にもディレクカーズ・カット版は存在する。こちらは、かつてリプリーに娘がいたというエピソードが追加されたことで、彼女の過去がクローズアップされた。これが追け加えられたことで、その後にリプリーがエイリアン・クイーンと戦うシーンはよりエモーショナルなものとなった。こちらは成功例と言えるだろう。得てして蛇足になりがちなディレクターズ・カット版だが、中にはこうした好例もある。
そこで今回の「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」は、果たしてどちらかと言うと、個人的には見事に成功しているように思った。
前作はすずの戦争追体験ドラマとしての側面が強かった。それはそれで観ているこちら側に戦争の悲惨さ、残酷さが伝わってきて、改めてその無為性がひしひしと実感された。
今回はすずとリンの交友が大幅に追加された。それによって、すずの周作に対する複雑な感情がクローズアップされ、すずという一人の女性の成長というテーマ、夫婦愛というドラマが前面に出てくるようになった。
もちろん反戦というテーマ自体に大きな変化はない。ただ、すずの内面を掘り下げたことで、過酷な戦時下における女性の生き方に厚みが増したような気がする。少なくとも自分は全く蛇足という感じを受けなかった。むしろ、観客により親切に作られているような気がした。
もう一つ、今回大きく追加されたのは、リンと同じ女郎屋で働くテルのエピソードである。すずと彼女の直接的な交流は少ししか描かれていないが、すずの慈しみ深い愛を表現する上では効果的だった。
今回の改訂増補版とも言うべきディレクターズ・カット版を製作した狙いの一つは、タイトルにある(もうひとつの)という言葉の中に隠されているような気がする。
前作では、すずだけに焦点を当てて作られた「この世界の片隅に」だったが、今回はテルやリンといったすずとは違う人生を歩んだ女性にも焦点が当てられている。彼女らの存在が、この(もうひとつの)という言葉の中には含まれているのではないかと考える。登場シーンこそ、それほど多くはないが、テルの生き様も(もうひとつ)の人生として観ているこちら側に強く印象に残った。
また、終盤に台風のエピソードが追加されていることも大きなポイントだと思う。これは実際にあった歴史的災害ということである。昨年、日本は各地で大きな台風被害を被ったことは記憶に新しい。もしかしたら監督はそこを狙ってこのエピソードを挿入したのかもしれない。ドラマ上絶対に必要であるかと言われると、そこまでの必要性は感じなかったが、昨今の台風や地震による自然災害に対する片淵監督なりの憂いが感じられた。
格差問題をブラックに描いたサスペンスコメディ。
「パラサイト 半地下の家族」(2019韓国)ジャンルサスペンス・ジャンルコメディ・ジャンル社会派
(あらすじ) 父キムとその妻チュンスク、大学受験に失敗続きの息子ギウと美大を目指す娘ギジョン。4人は半地下の薄暗い貧乏アパートに暮らしている。しがない内職で糊口を凌ぐ日々だったが、ある日ギウのもとに家庭教師の話が舞い込んでくる。相手はIT企業の社長の娘だった。早速、ギウは家族が暮らす高台の大豪邸へとやって来るのだが…。
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(レビュー) 半地下に暮らす一家が大豪邸に住む上流家庭に言葉巧みに潜り込んでいく社会派クライム・コメディ。
監督・脚本は
「母なる証明」(2009韓国)、
「TOKYO!」(2007仏日韓国)のポン・ジュノ。様々な問題作を撮ることで有名な作家であるが、本作も例にもれず。一見すると緩いコメディのように見えるが、蓋を開けてみると中々奥深いテーマが隠されている。
もはや韓国のみならず世界的な広がりを見せる格差問題が、今回の大きなテーマになっている。半地下に住むキム一家と高台の高級住宅に住むパク一家。この対比がそれを象徴している。実は韓国映画は、このテーマを結構前から取り上げている。
新鋭ヨン・サンホ監督の
「ソウル・ステーション/パンデミック」(2016韓国)、同監督作の
「新感染 ファイナル・エクスプレス」(2016韓国)、あるいはポン・ジュノ自身も過去に「スノー・ピアサー」(2016韓国仏米)という映画の中でこの問題を描いていた。こうした格差問題は急激な経済成長を成し遂げてきた韓国社会ではことさら深刻な問題となっているのだろう。
この「パラサイト~」はそれをブラック・コメディという形で提示している。
映画前半は、キムたちがパク一家の隙に付け込んでまんまと潜り込むまでを描いている。あまりにも上手くいきすぎて突っ込みを入れたくなるのだが、そこはそれ。上流家庭は世間知らずで危機管理意識に乏しいという意地悪な”寓話”ということなのだろう。
面白いのはここからで、キム一家はパク一家の邸宅の中に”ある隠された秘密”を発見する。ここから一気に映画はシリアス色を強めながら観る側をグイグイと引き込んでいく。この”隠された秘密”を知ったことでキムたちの計画は悪夢的な崩壊を迎えるのだ。
本作の肝は正にこの”隠された秘密”にあるように思う。キムたちを”半地下の家族”とすれば、この”隠された秘密”は更に地下深くで生きる”真正・地下の家族”と言っていいだろう。ネタバレを避けるためにこれ以上詳しくは書かないが、この”真正・地下の家族”の登場によって物語は皮肉的な顛末を迎えることになる。
そして、クライマックスに至り、映画は格差社会の風刺というそれまでのテーマを超え、これまでポン・ジュノが何度も描いてきたテーマ。すなわち人間の業、狂気にまで言及されていくようになる。格差問題は確かに本作の中心となるテーマであるが、最終的には普遍的なテーマへと見事に着地させているのだ。このあたりの手練は流石としか言いようがない。
映像演出も素晴らしい。同監督作「殺人の追憶」(2003韓国)からすでにクールでドライなタッチは完成されていたが、相変わらずの画面設計、上層の「明」と下層の「暗」の絶妙な配色対比が見事である。
更に、ポン・ジュノ映画ではもはやお馴染みである”雨”の使い方も秀逸だった。
ラストは観た人それぞれに解釈を委ねるような終わり方になっている。現在の格差社会。そして人間が本来持っている嫉妬や些末な感情を嫌というほど実感させながら、観客を突き放して終わる。観た者はきっとその意味を問いかけ、我が身に引き寄せて色々と考えてみたくなるだろう。
尚、今回特に面白いと思ったのは、映像だけでは伝わりにくい”匂い”について果敢に表現の挑戦を試みていたことである。実際、映画は視覚体験のメディアなので、どうしても”匂い”の表現には限界がある。そこを演出する側は色々と工夫しながら表現する。美味しそうな料理や汚いドブ川を写すことで、何となく”匂い”を観客に想像させるわけだ。
本作ではパクがキムのことを独特の”匂い”がすると表現している。不衛生な半地下暮らしを送っているキムの体には、おそらく鼻をつくような異臭がこびりついているのであろう。自分ではその匂いに中々気付かないが、周りの人間は敏感に感じ取ってしまうものである。
この”匂い”は本作において非常に重要な意味を持っているように思う。物理的な異臭を意味しているのはもちろん。キムたち下層社会に根付く精神的な”綻び”をも意味しているように思う。他者に寄生してしか生きていけない負け犬根性と言ってもいいかもしれない。
そして、彼らがこのまま半地下の生活から抜け出せない限り、ずっとこの”匂い”を消すことはできないのである。
本作にたびたび登場してくる”匂い”という言葉をこう読み解いていくと、格差問題の根深さを改めて思い知らされてしまう。
空想のヒトラーを友達に持った少年の成長ドラマ。健やかで愛らしい作品。
「ジョジョ・ラビット」(2019米独)ジャンル戦争・ジャンル青春ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) 第二次世界大戦下のドイツ。母ロージーと暮らす10歳の少年ジョジョは、憧れのヒトラーユーゲントの合宿に参加する。ところが、訓練中に大怪我してしまい除隊を余儀なくされる。想像上の友だちであるアドルフに慰められながら、鬱屈した日々を送っていたある日、彼は自宅の亡き姉の隠し部屋にユダヤ人少女エルサを見つける。
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(レビュー) 狂信的なナチズム少年とユダヤ人少女の交友をユーモアを交えながら描いた感動のヒューマン・コメディ。
戦争の悲惨さをかなりオブラートに包んで描いているので、余り重苦しくはない。個人的にはもう少し戦争の現実を突きつけるような場面があっても良かったような気がしたが、そこは明快なエンターテインメントに割り切ったのだろう。
ただ、ヒトラーを少年のイマジナリー・フレンドとして登場させたことは、かなり野心的と言える。映画におけるヒトラーはたいてい悪役的なポジションに置かれることが多いが、ここでは主人公の想像上の友人である。しかも、主人公が根っからのナチズムというのもかなりぶっ飛んでいる。
物語前半は、ジョジョの訓練風景や母ロージーとの暮らし振り、ユダヤ人少女エルサとの交流を綴りながら、彼の戦争に対する漠然としたカッコいいという憧れをシニカルに描いている。
しかし、後半から徐々に戦争の悲惨さが前面に出てくるようになる。敗戦濃厚となっていく中、幼い親友ヨーキーも戦地へ赴き、優しく慈しみ深かった母ロージーは悲惨な運命を辿り、エルサはユダヤ人狩りの標的となってしまう。数多ある戦争映画ではお馴染みのネタであるが、前半とは違ったテイストに変貌していく。
もっとも、先述したように基本的にはコメディなので、ジョジョの周囲には常に愛が溢れており、それによってある種”優しい世界”が成立している。なので、どこかに必ず救いがあるので決して嫌な後味は残らない。
例えば、ヒトラーユーゲントの指揮官キャプテン・Kなどは表立っては厳しい将校であるが、心根は優しい男である。彼によってジョジョとエルサは随分と助けられた。
やがて戦争の現実を目の当たりにするジョジョは、それまでの盲目的なナチズム思考を改め、自分で物事を考える一人の自律した少年へと成長していく。成長物語として実にオーソドックスに構成されており、誰が見ても感情移入もしやすいドラマとなっている。
また、エルサに対する淡い恋心も、実に微笑ましく、観ているこちらも自然と応援したくなるような、そんな愛おしさに溢れていた。
共同製作・監督・脚本はタイカ・ワイティティ。未見であるが「マイティ・ソー バトルロイヤル」(2017米)等の監督を務める一方で、俳優としてもいくつかの映画に出演している多芸な映画人である。本作ではヒトラー役として出演もしている。
「マイティ・ソー~」などは、明らかにブロック・バスターなエンタメ作品なので、どちらかと言うと雇われ監督だったのだろうが、今回は原作があるとはいえ本人が脚本も書いていることもあり、彼本来の作家性が出た作品なのかもしれない。
彼のインタビュー記事を読んだが、中々骨のある作家だと思った。今作で戦争のバカバカしさを描きたかったのだそうだ。普通の作家であればシビアに描くところを彼は敢えてコメディとして料理したところに、他の作家とは違う大胆さがうかがえる。尚。原作はもっとシリアスな内容で、ヒトラーのイマジナリー・フレンドも登場してこないということだ。
このアイディア一つとってみても彼の作家としての才能がよく分かる。見ようによっては、かなり危い題材であるが、それを難なくエンタメに仕上げてしまう手腕も大したものである。
演出もよく計算されていて、言葉に出さない”愛”の表現方法などは素晴らしかった。キャプテン・Kの優しさ、ジョジョのエルサに対する手紙、それを無言で受け止めるエルサの殊勝さなどは中々味わい深かった。
また、ロージーの靴の表現方法も素晴らしかった。
こうした懐の深い演出ができるあたりに、監督としての才能が感じられる。
キャスト陣の妙演も見逃せない。
中でも、母ロージーを演じたS・ヨハンソンが印象に残った。家を留守がちにしているので何か秘密があると思ったら、裏ではそんな事をしていたのか…ということが分かり感動させられる。ヨハンソンは強い女性を演じることが多いが、ここでも勇気、慈愛をのびのびと表現している。
また、キャプテン・Kを演じたサム・ロックウェルもいい味を出していた。
「スリー・ビルボード」(2017米)に続く”もうけ役”と言えよう。
ウルヴァリンよ永遠に…
「LOGAN/ローガン」(2017米)ジャンルSF・ジャンルアクション
(あらすじ) すでにミュータントの大半が死滅した2029年。ローガンはメキシコ国境近くの寂れた荒野で年老いたチャールズの面倒を見ながらひっそりと暮らしていた。ある日、ガブリエラという女性が現われ、謎の少女ローラをノースダコタまで送り届けてほしいと頼まれるのだが…。
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(レビュー) アメコミシリーズ「X-MEN」の人気キャラ、ウルヴァリンことローガンを主役に据えた単独の作品。
これまで「X-MEN」シリーズは何本か製作されてきた。最初のシリーズは2000年から2006年にかけて作られたシリーズ。その次に2011年から2016年にかけて作られたX-MEN結成の前日弾にあたるシリーズ。そして、2009年からウルヴァリンを単独の主役に据えて作られた本シリーズである。
自分は第1作「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」(2009米)、第2作「ウルヴァリン:SAMURAI」(2013米)は未見である。ただ、前2作を観ていなくても、最初の設定さえ理解すれば、特に問題なく観ることができた。とりあえず、ウルヴァリンやチャールズのキャラクターを知っていればすんなり入り込める作品になっている。
監督は前作に続きジェームズ・マンゴールド。彼は本作で製作総指揮、原案、脚本も担当している。
そもそもこの人は様々なジャンルの作品を撮る監督で、こう言っては何だがたいへん器用貧乏なところがある。「17歳のカルテ」(1999米)のような青春ドラマから「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」(2005米)のような音楽伝記映画、
「3時10分、決断のとき」(2007米)のような西部劇。実にジャンルが多彩だ。今回はアメコミ物であるが難なく器用に捌いてるのは、この監督の職人気質だろう。
とはいえ、本作は明らかにこれまでの、どの「X-MEN」シリーズとも毛色が違った作品となっている。個人的には「3時10分、決断のとき」のような西部劇のようなテイストが感じられた。
現に劇中には古典的名作「シェーン」(1953米)が流れてくるし、物語の舞台もこれまでの近未来的な都市ではなく、どこまでも行っても果てしなく続く砂煙が吹き荒れる荒野である。明らかにシリーズの中では異色の作品となっている。
そして、年をとって体力も衰えてしまったウルヴァリンには哀愁が感じられる。彼はすっかり老け込んでしまったプロフェッサーXことチャールズの介護に追われ、突然押し付けられた謎の少女ローラの面倒を見るという二重苦を背負わされながら悪戦苦闘する。そこにはかつての面影はない。通俗的なヒーロー映画とは一線を画した野心作で、そこも異色である。
物語は、そんなウルヴァリンを反ミュータントの武装集団が襲うという流れで展開されていく。
基本的にシリアスな内容だが、ローガンとチャールズの会話、ローガンとローラの疑似親子的な関係が一服の清涼剤的な役割を果たしている。硬軟のバランスが上手く図られているので大変観やすい。このあたりのエンタメ手腕は流石にマンゴールド監督である。彼の職人気質が良く出ている。
また、アクションシーンもかなりハードであり、日本ではR15のレーティングとなっている。ゴリゴリとしたバイオレンス描写は子供よりも大人の鑑賞を意識した演出である。
残念だったのは、ウルヴァリンたちが向かう”エデン”という土地が今一つすんなりと受け入れられなかったことである。X-MENのコミックスに登場する土地らしいのだが、メタ要素が強い架空の土地であり自分などは飲み込みづらかった。
新シリーズ最終章。アクションシーンは派手だが…。
「X-MEN:アポカリプス」(2016米)ジャンルアクション・ジャンルSF
(あらすじ) 1983年、プロフェッサーXは若きミュータントの教育に尽力し、マグニートーは身を隠して妻子とともに静かに暮らしていた。そんな中、長き眠りから目覚めた人類史上最初のミュータント、アポカリプスが、堕落した人類への怒りを募らせ世界の再構築を決意する。彼は新たな“黙示録の四騎士”の選抜に乗り出す。
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(レビュー) 第1作
「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」(2011米)、第2作
「X-MEN:ヒューチャー&パスト」(2014米)に続く「X-MEN」新シリーズの第3弾にして最終章。
今回の敵は人類史上最初のミュータント、アポカリプスである。一度は封印された彼が永い眠りから復活し、人類を滅亡の危機に陥れる…というのが今回の話である。
自分は、第1作のインパクトがあまりにも強すぎて、その後の第2作が今一つ物足りなかった。あまり期待しないで今回で最終章を観たのだが、結論から言うと、別に最終章という凄みも大団円も感じられず、いつもと変わらぬシリーズの1本という印象しか残らなかった。
そもそも本シリーズはX-MEN誕生の前日弾という流れで出来たシリーズだと思う。そういう意味では、今回のラストにはそれなりの満足感を覚える。しかし、これは予め用意された結末であって、例えば「スター・ウォーズ」シリーズで言えば、4に繋がるプリクエル・トリロジーのようなものであり、たいして驚きはない。
それよりも、個人的にはプロフェッサーXとマグニートーの関係変転。そこをもっと見せて欲しかった。
確かに周囲の環境や複雑な世界情勢のせいで表面的には二人の関係は大きく変化したかに見える。しかし、内面変化についてはまだまだ回答を出しきっていないという感じを受けた。これでは、ただ結果だけを提示して見せました…というだけである。第1作の期待を大きく裏切られた思いである。
一方、アクションという観点から見れば、今回の敵であるアポカリプスは確かにラスボス感があり、ミュータントたちはかなりの苦戦を強いられ、三部作のクライマックスとしては申し分ない出来となっている。何しろ彼は相手の能力を吸収して自分のパワーに変えるという究極の生命体である。一体どうやって倒すの?とクライマックスは見入ってしまった。
残念だったのは、そのアポカリプスの倒され方である。墓穴を掘るとはまさにこのことで、勝手に自滅したよにも映ってしまう。
また、マグニートーの謀反も予想通りである。彼に関してはミスティークの恋愛エピソードも用意されていたが、こちらも今一つ盛り上がりどころを欠く内容で残念だった。
クライマックス以外では、クイックシルバーの活躍シーンにも興奮させられた。前作での彼の活躍も素晴らしかったが、今回もハイテンションな見せ場が用意されている。
更に、今回はローガンがノンクレジットで少しだけ登場してくる。もちろんX-MENの仲間になる前の彼なのだが、すでにこの時にメンバーと邂逅していたのか、とうことが分かり、シリーズを知っている者としてはクスリとさせられた。
衝撃のシリーズ第2弾は前作からガラリと視点を変えて…。
「10クローバーフィールド・レーン」(2016米)ジャンルSF・ジャンルアクション・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 車を運転中に事故を起こした女性ミシェルは。気が付くと見知らぬ地下シェルターで拘束されていた。そこにシェルターの所有者を名乗る中年男ハワードがやってくる。彼の隣には腕をケガしたエメットという青年がいた。自分が閉じ込めたれている理由を聞くと、外で恐ろしいことが起きているからと言われる。俄かには信じられないミシェルは彼らと共同生活を送りながら脱出のチャンスを伺う。
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(レビュー) 巨大怪獣がニューヨークに現れて街を大パニックに陥れた
「クローバーフィールド/HAKAISHA」 (2008米)の続編。製作のJ・J・エイブラムスが引き続きプロデューサーを務め、前作とは違った視点でこの物語を描いている。
なるほどそういう切り口があったか、と思わせるような新鮮な続編になっている。基本的には男女3人の密室劇で、前作のような派手さはない。しかし、新機軸を見せてくれたという点では面白く観れる作品だった。
思い出されるのは、終末世界の密室サバイバルを描いた「ゾンビ」(1978米伊)である。あの映画の後半もショッピングモールを舞台に怠惰な日常シーンが描かれていた。本作でも同じような共同生活が描かれる。但し、こちらはそれぞれに疑心暗鬼に駆られているという点で多少肌触りが異なる。ピリピリと凍てつくような緊張感に溢れた密室劇となっている。
例えば、若いミシェルとエメットが仲良くなると、シェルターの支配者であるハワードは嫉妬に駆られて逆上する。実は、すべてはここから脱出を目論むミシェルの画策で、エメットもそれにまんまと利用されていただけ…というのが分かって面白い。3人の力関係、パワーゲーム、駆け引きがこの密室劇をグンと面白くしている。
また、ハワードはミシェルを心のどこかで我が子のように思っている節が感じられた。3人で退屈しのぎにゲームをするのだが、そこでハワードは「小公女」の名前を出す。
言わずと知れた児童文学の名著であり、日本では「小公女セーラ」というタイトルでアニメ化もされた有名な作品である。また、A・キュアロン監督によって1995年に実写映画化もされた。
この「小公女」というキーワードには、ミシェル=未成熟な少女という意味が隠されているような気がする。そう考えると、普段は暴君であるハワードの”親心”が少しだけ透けて見えて憐れに思えてくる。
前作のような怪獣が出てこずとも、このようなさりげない感情のぶつかり合い、騙しあい、すれ違いを読み解いていけば、本作は十分に見ごたえのあるエンタメ作品として楽しむことができる。
尚、共同脚本にD・チャゼルの名前がクレジットされている。本作は
「セッション」(2014米)と
「ラ・ラ・ランド」(2016米)の間に公開された映画である。
元々チャゼルは、ホラーやスリラー映画の脚本を手掛けていた経歴があり、そこから考えると今回の心理サスペンス的なタッチも何となく頷ける。あの「セッション」にしたって、観ようによってはホラー映画的な怖さがあったし、おそらく根本的な資質としてチャゼルはスリラー的な要素を持っているのだろう。
ただし、脚本、演出上幾つか突っ込み所があるは惜しいと思った。シェルターのライフラインはどうなっているのだろうか?何の説明もない。
また、クライマックスのミシェルの活躍がヒロイックすぎる感じも受けた。そこまでは非常にストイックに展開されていたドラマがここにきて必要以上にはじけてしまった感がある。
尚、すでに第3弾も製作されており、そちらはNetflixで「クローバーフィールド・パラドックス」(2018米)というタイトルで配信されている。いずれそちらも観てみたい。
人気シリーズ第3弾は更にアクション性高め。
「スター・トレック BEYOND」(2016米)ジャンルSF・ジャンルアクション
(あらすじ) 宇宙基地ヨークタウンに寄航したエンタープライズ号は、そこで未知の宇宙船に乗る女性からSOSのメッセージを受け取る。すぐさま救出へと向かったが、それは巧妙な罠でエンタープライズ号はクラールという異星人からの襲撃を受けてしまう。
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(レビュー) 往年の名作ドラマ「スタートレック」を新たにリイマジネーションした新シリーズ第3弾。
これまでシリーズを手掛けてきたJ・J・エイブラムスの手を離れて、新たなスタッフの元で製作された今作は、これまで以上にアクション性の高い娯楽作品に仕上がっている。ノリと勢いで突っ走った。そんな印象の作品である。
ただし、前半は往年の「スタートレック」シリーズを意識した異星探検物で、割ともっさりとしたテイストで進行する。かつてのテレビシリーズを観ていた人ならこれはきっとオマージュだと分かるだろう。しかし、現代のようなスピード重視のハリウッド映画を観慣れている者にとっては鈍重に映るかもしれない。実は、自分も少し退屈してしまった。
後半は惑星から脱出したクルーたちが敵の野望を打ち砕くべく、派手なアクションを繰り広げるようになる。ここからは一気に最後まで軽快に進み楽しく観れた。
特に、ビースティーボーイズの「サボタージュ」に乗って展開されるアクションはテンションが上がった。
監督はジャスティン・リン。これまでに「ワイルド・スピード」シリーズを主に手掛けてきた監督である。
中盤のバイクアクションなどを観ると「ワイルド・スピード」っぽさを感じる。そして、白眉はなんといっても後半の畳みかけるような怒涛のアクション・シーンのつるべ打ちである。終盤の無重力アクション等、これ自体今までに無かったわけではないが、VFXを効果的に使いながらスピーディー且つ迫力のある映像を創出している。
脚本は本作のスコット役で出演もしているサイモン・ペッグが共同で担当している。そもそもコメディ畑の人なので、当然今作にはふんだんにコメディ要素が盛り込まれている。
例えば、スポックとドクターのコンビのやり取り一つ取ってみてもクスリとさせられる。ある意味で「スタートレック」の一つの伝統芸能で、それをしっかり受け継いでいる。
序盤でスタートレックが不時着して機能停止に陥ってしまうのも意外性があって面白い展開だった。
一方で、今回は適役のクラールにあまり魅力が感じられなかったのは残念である。前作
「スター・トレック イン・トゥ・ダークネス」(2013米)でB・カンバーバッチが演じたジョン・ハリソンの存在感に比べると、どうしても物足りない。キャラクターの厚みが雲泥の差である。
なお、今作の公開直前にスポック役としてファンから親しまれてきたレナード・ニモイと、本作にチェコフ役で出演しているアントン・イェルチンが他界した。映画の最後に追悼のクレジット流れしみじみときた。