便利屋とワケあり男の友情を描いたヒューマン・サスペンス。中々の好編。
「まほろ駅前多田便利軒」(2011日)ジャンル人間ドラマ・ジャンルサスペンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 東京郊外のまほろ駅前で便利屋を営む多田は、ある日みすぼらしい格好をした一人の男に出会う。それは中学時代の同級生・行天だった。かつて多田は行天の小指を怪我させたことがあり、何となく気まずい雰囲気になった。一晩泊めてくれという行天の言葉を渋々受け入れた多田は、そのままずるずると共同生活に入ってしまう。ある日、依頼人から預かっていた子犬を返そうと二人はその家を訪問する。ところが、依頼人は謎の失踪を遂げていて‥。
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(レビュー) 便利屋家業をしている男とワケあり男の奇妙な友情を、周囲の様々な事件を交えて描いたヒューマン・サスペンス・ドラマ。
少しばかりブロマンス的な匂いが嗅ぎ取れるのは狙ってやっているのか?それとも偶然なのか?いずれにせよ、多田と行天のオフビートなやり取りは中々面白く見れた。二人とも不器用な性格でよく似ている。本音を中々口に出せず損をしてしまう。そんなボンクラ二人のバディ・ムービーは中々味わい深い。
演者陣の魅力も作品に厚みをもたらしている。
多田を演じた瑛太の優しさと憎しみ、後悔の念を引きずる造形が素晴らしい。特に、クライマックスの熱演には目を見張るものがあった。想像していた通りの秘話であったが、彼の告白にはやはり見入ってしまう。
一方、行天を演じた松田龍平の肩のこらないナチュラルな演技も、瑛太とのバランスで言えば悪くない。
ストーリーは1年に渡る4章立てで進行する。まず、多田と仰天の出会いを描く「3月」。塾に通う少年の送迎の仕事をする「6月」。このエピソードを受けて二人が"ある犯罪″に巻き込まれる「8月」。そして、二人の過去が露わになる「11月」。各章は夫々に相関がはかられているので独立しているわけではない。したがって、全体としてのまとまり感がある。全て面白く見ることが出来た。
ただ、薬物絡みの事件には違和感を持ってしまった。今作は全体的にコメディタッチな作りになっているとはいえ、ここだけは本来のトーンよりもかなり喜劇色が強められている。例えば、闇売買の元締めは明らかに「時計じかけののオレンジ」(1971米)のアレックスの物真似で悪ふざけが過ぎるし、その彼が自分の商売の邪魔をした多田に向かって「走れ!便利屋」とエールを送るのも何だか今一つピンとこない。第一このセリフ自体が臭すぎて受け付けがたい。
事件を追う刑事もストーリーを進めるための解説者のようになってしまった。説明セリフに走り過ぎである。
これらは原作にあるものなのか、それとも脚色なのかよく分からないが、若干軽薄に感じてしまった。
監督は大森立嗣。演出自体はこなれていると思った。ただ1点だけ不満を挙げるとすれば、子犬の飼い主を突き止めた先での母親のリアクションがおかしい。行天はロングコート、長髪に無精ひげという格好である。それを娘の新しい担任教師と簡単に受け入れてしまうのは不自然である。ましてや、深夜の突然の訪問である。普通は怪しむべきであろう。
こういう細かな粗が幾つか気になったが、全体的にはかなりしっかりと作られていて安心して見ることが出来た。時制の接合にも手間取ることなく流麗に演出されている。
テーマは『親子の絆』と解釈した。多田と仰天の過去、塾の送迎をしてもらう少年の話、木村の一件等、全てに親子関係の問題が絡んでいる。いずれも苦いドラマになっているが、各キャラクターはその経験を通して最後に一筋の光明を見出している。そこにはホッと安堵させられた。
例えば、少年のエピソードは、もしかしたら母との距離が少しだけ近づいたかもしれない‥と思えた。また、木村のエピソードも、もしかしたら母親と理解しあえる日が来るかもしれない‥という淡い希望を持つことが出来た。
親は子を選べないし、逆もまたそうである。親子は一生親子なわけで、離れて住んでいても決して消せない絆である。良くも悪くも逃れられないこの"宿命″を暗に示すかのごとく、夫々のエピソードは丹念に積み重ねられている。
尚、本作はシリアスなドラマを扱ってはいるものの、そこかしこにオフビートな笑いが登場してくる。その中で最も笑えたのは、瑛太の「なんじゃこりゃ~」のセリフに対する松田龍平が「似てない」という突っ込みである。むろん、これは「太陽にほえろ!」における父・松田優作の名セリフである。
実話の学園ドラマ。
「フリーダム・ライターズ」(2007米)ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 1994年、ロサンゼルスの荒廃した高校に、新人女性教師エリン・グリーウェルがやって来る。様々な人種が入り乱れる構内では争いが絶えなかった。それを見て唖然とさせられるエリン。それでも父や夫に支えられながら彼女は生徒たちに真摯に向き合っていく。そんなある日、町で銃撃事件が起こる。この事件にはエリンの生徒も関与していた。早速クラスでは彼に対する虐めが行われる。それを見たエリンはホロコーストの話を聞かせてやる。しかし、生徒たちはその歴史すら知らなかった。エリンは彼らをホロコースト記念博物館に連れて行くことで、争いの醜さを教えようとするのだが‥。
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(レビュー) 新任女性教師と荒んだ青春を送る生徒たちの交流を綴った感動作。同名の全米ベストセラーの映画化である。
手垢のついた題材な上に、ラストの大団円も実話が原作という割に軽く映り、何だか印象が薄いドラマである。学外見学によって生徒たちと信頼関係が築かれていくのも、S・ポワチエ主演の「いつも心に太陽を」(1967米英)の焼き直しにしか見えず既視感が拭えない。要するに、何もかもが上手くいきすぎて、実話のドラマなのに楽観的に見えてしまうのである。
ただ、そうした甘ったるい鑑賞感が残るにしても、映画自体は決して悪い出来ではないと思う。
特に、中盤のスピーチのシーンは感動的だった。今まで一番目立たなかった生徒がクラス全員を家族と呼ぶのだが、その姿に涙が溢れそうになった。
また、実話が元になっているというだけあり、作り手たちの教育問題に対する切り込み方もユニークである。教師が生徒たちの心をどうやって開いていくのか?その実例がここでは描かれている。
たとえば、一番面白いと思ったのは、エリンが生徒たちを二つのグループに分けて行う"ラインゲーム″というものである。彼女は生徒たちに様々な質問をぶつけて、答えが”イエス”なら教室の中央に引かれたラインを踏むように言う。質問は彼らの身辺に関する物ばかりだ。ギャングの襲撃を受けたことがあるか?人種間の争い"戦争″で友人を亡くした者はいるか?その友人の名前を呼んでみて‥等々。質問がどんどんヘビーになっていく。そして、最後のラインに残った生徒たちは、その"戦争″の当事者達となる。今までいがみ合っていた者同士が同じラインを踏み、亡くした友人たちの名前を呼び合い、争いの虚しさを知っていく。この”ラインゲーム”は、生徒達一人一人に自分は被害者であると同時に加害者でもある‥ということを気付かせていく。これは中々考えられた授業だと思った。
この他にも、エリンの授業アイディアは斬新な物が多い。例えば、教材にギャング少年の半生を描いた小説を使うことで、生徒たちに"考えること″と"問題を見つめなおすこと″を身近な所で用意してやっている。
更には、生徒たちが夫々に抱える悩みを自己認識させるために、日記帳を配ってありのままの自分を書かせる。しかも、ここでエリンが上手いと思うのは彼らにそれを強要しないところだ。書きたい者だけが書いて、読んでもらいたい者だけがロッカーに入れておいて‥と、あくまで自主性を尊重するのである。実際にこれが成功し、エリンは生徒たちが抱えている問題を個々に把握することができ、以後の授業でそれを活かすことが出来るようになる。
かようにこのエリンという女性教師のやり方は、新人教師とは思えぬほど手練れていて、見れば見るほど感心させられる。
一方、そんな彼女もプライベートでは様々な問題を抱えていく。一日の大半を教育現場に費やすので夫とは疎遠になり、斬新な教育方法から職場では上司と対立していくようになる。このあたりの葛藤も丁寧に描写されていて面白く見ることが出来た。
ただ、先述したように、ラストを含め全体的に少し楽観的な作りになってしまっている。後で調べて分かったが、この監督はどうやら脚本家上がりの人物のようである。もちろん今作のシナリオも書いているのだが、実話の映画化という事をどう考えているのだろうか?実話には実話なりのリアル志向な語り口というものがあるように思う。描き方次第では逆に大変嘘臭いドラマになってしまいかねない。そのあたりのバランス感覚がもう少し上手くいっていれば‥と残念に思った。
例えば、日記を書かせるシーンで、十分な教育を受けてこなかった彼らに果たして字が書けるのだろうか‥という疑問が湧いた。
「プレシャス」(2009米)では非識字で苦悩する黒人少女が登場してくる。彼女のように読み書きのできない子供はいなかったのだろうか?
また、裁判の遺恨を抱えたエバ、終身刑になった兄を抱える黒人少年のその後など、サブエピソードの放出が目立つ。そのせいで映画を見終わっても釈然としない思いが残った。収集できないのであれば、これらのエピソードを無理に詰め込む必要はなかったと思う。
イイ話でホッコリできる。
「ル・アーヴルの靴みがき」(2011フィンランド仏独)ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 小さな港町ル・アーヴル。靴磨きの仕事をしている中年男マルセルは、献身的な妻アルレッティと慎ましくも幸せな暮らしを送っていた。ある日、アルレッティが病に倒れ入院してしまう。医者の診断では絶望的だと宣告されたが、彼女は夫には黙っていて欲しいと頼んだ。その頃、港では搬入されたコンテナからアフリカからやって来た密航者が発見される。その中の一人、少年イドリッサは逃亡し、その先でマルセルに出会う。不憫に思ったマルセルは彼を匿うことにするのだが‥。
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(レビュー) 平凡な中年男と密航少年の交流を温かい眼差しで描いた人情ドラマ。
監督・脚本はA・カウリスマキ。オフビートな佇まい、時折見せるノワールタッチは相変わらず健在で、彼の作風を知っている人なら安心して楽しめる作品だと思う。ただ、彼本来の冷徹主義は今回は完全に封印されている。不法移民という社会派的な題材に深く突っ込むこともなく、あくまで人情ドラマに重きを置いた作りはこれまで以上に楽天的な仕上がりを見せている。
例えば、病に瀕したアルレッティの死のドラマ。母を探して旅をするイドリッサの再生ドラマ。死と生を対比させたドラマ構成は、描き方次第では残酷で暗い物語にすることも出来たはずだ。それをカウリスマキはリアリズムを抑制して寓話化をはかっていく。その結果を良しとするかどうは人それぞれだろう。
確かに奇跡を描く物語だけに、やりようによっては大変嘘臭くなるドラマである。三流の監督ならこれ見よがしに抒情的なBGMでも流して涙を誘おうとするのだろうが、やはりカウリスマキは一味違う。彼特有のミニマムな演出・シナリオが、本来の"臭み″を上手く中和している。そこを含め、個人的にはここまでロマンティックなドラマを見せてくれたことに素直に拍手を送りたい。
映画は非常にコンパクトにまとまっていて、むしろ省略しすぎな感じがしなくもないが、それとて唐突に感じるというほどではなく堅実に展開されている。いつの間にパン屋の小母さんにイドリッサのことを教えたのか?といった細かな不審点はあるが、そこは見る側が汲み取ってやるべきだろう。
ただ、後半のライブシーンは1曲丸々演奏がかかる。これは全体のコンパクトな作りからすると若干長く感じられた。音楽にこだわりを持つカウリスマキだけに思い入れがあったのだろうが、省略できる部分である。
小道具の使い方にも唸らされるものがあった。後半に"ある包み紙"が登場してくる。この伏線と回収が抜群に上手かった。おそらく最後の"アレ″はアルレッティのちょっとした悪戯心だったのではないだろうか?自分にイドリッサのことを何も話してくれなかったマルセルに対する嫉妬のようなもので、だからあの包み紙をベッドに置いたまま彼女はいなくなったのだと思う。見た目は仏頂面な彼女(カウリスマキ作品の常連K・オウティネンなのだから当然仏頂面)だが、この時だけはまるで悪戯をしでかした少女のように愛らしく思えた。
キャラクターはストーリー同様、シンプルに造形されていて大変見やすい。ただ、このシンプルさがキャラクターの平板化に繋がっているような気がした。ともすると、物語を展開させるためだけに作られた存在のように見えてしまう。全てが善人という所にも引っかかった。
ただ、イドリッサを追いかけるモネ警視のキャラだけは出色だと思った。今回は悪人らしい悪人は余り登場してこないが、彼は唯一悪役サイドに立つキャラである。しかし、そんな彼でさえも情にほだされ、根っこの部分では決して悪人というわけではない。彼は捜査官という職業柄、敢えて人間嫌いを装っているが、実際には寂しい男なのだ。他に比べてキャラクターに奥行きが感じられて印象に残った。
映画作家の苦悩をひたすらアイロニカルに突き放した懐古映画。
「汽車はふたたび故郷へ」(2010仏グルジアロシア)ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 旧ソ連時代のグルジア共和国。少年ニコは幼馴染と悪戯をしながらすくすくと育っていった。そして、青年になったニコは彼らの協力を得ながら念願の映画監督になる。ところが、初めて撮った作品が反政府的な内容として上映禁止を食らってしまう。失意のニコは祖父に勧められてフランスへ渡り一から出直しを図る。
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(レビュー) グルジア出身の巨匠O・イオセリアーニ監督の半自伝的映画。自身の青春時代を投影したかのような主人公ニコの悪戦苦闘を独特のユーモアで切り取っている。
こういう私的な映画は、その当人に余程興味があるか、何かしらドラマチックで共感できるようなテーマが用意されていなければ入り込むのは中々難しいと思う。自分はこれまでにイオセリアーニの作品は前々作「月曜日に乾杯!」(2002仏伊)しか見ていない。その時は、正直なところ余りにも淡々としすぎていて眠りそうになってしまった。また、作品のテーマも一定の理解はできるのだが、「だから?」的なものに思えてしまい、余り楽しむことができなかった。
今作もやはり淡々とし過ぎていて、自分には今一つ肌に合わなかった。そもそも、半自伝的な内容というわりに、展開がご都合主義で随分とリアリティに乏しい。また、キャラクターも感情移入できず見ていて退屈する映画だった。
というか、劇中に登場するニコが撮った映画が、まるで学生映画のような陳腐さでとてもじゃないが才能の片りんすら感じられない。まだ駆け出しの彼がどうやって資金を調達して映画を撮ることができたのか?その経緯がまったく描かれていないので不思議でしょうがなかった。しかも、案の定出来上がった作品は製作サイド、つまり政府の検閲に引っかかってしまいお蔵入りになってしまう。当然である。若い彼に任せたのが間違いなのである。
その後、フィルムはニコ自身の手によって国外に持ち出され一定の評価を得たのだろう(その描写自体がないのであくまで想像するほかないが‥)。フランスへ渡った彼は映画プロデューサーに見初められて再び映画を撮るチャンスを貰う。え?あの映画の出来で‥?と信じがたいが、更にこのプロデューサー。あろうことか彼に金になる映画を作れと要求するのだ。オイオイ、ちょっと待てよ‥。駆け出しの亡命作家、しかもアート系作家である彼にその注文は無理だろう‥と思ってしまった。そして、案の定、再びこれも失敗作に終わってしまう。出来上がったフィルムはプロデューサーたちの手によって再編集されてしまうのだ。繰り返しになるが、それなら最初から彼に撮らせるなよ‥という突っ込みを入れてくなってしまった。
ここまでくると、もはやこのストーリー自体が支離滅裂、リアリティがまったく感じられなくなってしまった。
このように本作は理屈や理論を伴わない展開が余りにも多すぎる。ベタなコメディならナンセンスとして片づけることも出来るが、本作はそこまでの喜劇ではない。これではドラマへの関心が削がれるのも無理がなかろう。
ただ、シナリオ自体はヘナヘナだが、この映画でイオセリアーニが何を描きたかったのか?映画のテーマについては一定の解釈を得ることは出来た。
長年映画界に君臨してきた彼は、映画がどうやって作られ、どうやって人々の前に届けられるのかをよく知っている。ニコが撮ったフィルムが検閲でズタズタに切り裂かれ、本来の目的とは違った物に改変されてしまうことは、モノを作り出す作家としては絶対に許せないことなのだろう。その理不尽さをこの映画で訴えたかったのではないだろうか。編集室から追い出されてヤケ酒を飲むニコの姿が見ていて辛かった。イオセリアーニ自身にもそうした経験があったのかもしれない。
そして、後半から画面にはニコにしか見えない"ある物体″が登場し寓話化されていく。おそらくこの"ある物体″とは、映画という空想の産物に憧れる青年ニコの絶望と孤独が生み出した幻想だったのだと思う。だとすると、このラストは余りにも物悲しい。映画監督というのは好きな物だけを撮っていけるわけではない。自分の希望とそぐわない物も撮らなければならない時がある。映像作家としての愚痴、苦悩みたいなものが伝わってきた。
演出は基本的にはナチュラルでオーソドックスなものを見せてくれている。ロングショットにおけるカメラワークにベテランならではの手練が感じられた。しかしながら、この端正さは良くも悪くも淡々としすぎている。自分がこの映画を退屈に感じてしまう最大の原因はそこにある。結果、映画が平板に感じられてしまった。
切腹をモチーフにした傑作時代劇。
「切腹」(1962日)ジャンル人間ドラマ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 彦根藩・井伊家に半四郎という浪人がやって来て切腹のために庭を拝借したいと申し出た。その頃、世間では困窮した浪人が玄関先で切腹すると言って金品をせしめる行為が流行っていた。家老の斎藤勘解由は半四郎をその輩だと睨み、先頃やって来た千々岩求女という浪人の話を聞かせてやる。求女は実際に腹を切り壮絶な最期を遂げた。それを聞いた半四郎は意外な話を語りだす‥。
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(レビュー) 切腹によって非情な死を遂げた武士とその家族の生き様と復讐を骨太に綴った時代劇。
自分は2011年に三池崇史監督がリメイクした
「一命」(2011日)の方を先に見ている。
「一命」は三池監督らしからぬ生真面目なテイストに賛否あったようだが、個人的には今までにない新機軸を見せてくれたという意味で楽しめた。後からこのオリジナル版を見てみると、若干異なる演出は見られるものの両作品は本当によく似ていて驚かされた。そこで、今回は両作品の違いなどをざっと述べてみようと思う。
まず、求女の切腹の描き方がかなり違う。オリジナル版よりもリメイク版の方がじっくりと描かれている。一部でやり過ぎという声も上がったが、自分はこのシーンには三池監督のこだわりが感じられた。彼はなにも見世物的なエンタメを狙ってしつこく描写したわけではないだろう。ここで求女の苦しみ、痛みを見る側にしっかりと植え付けることによって、彼の無念の思いを強く押し出そうとしたのだと思う。そして、その無念の思いをしっかりとプレマイズすることで、以後の半四郎の復讐の念にも説得力がもたらされることになる。求女の切腹シーンにはこうした三池監督の計算が感じられた。
したがって、個人的にはじっくりと描いたリメイク版の方がオリジナル版よりもドラマチックに仕上げられているという点で優れているような気がした。
また、これが両作品で一番大きく異なる部分だと思うのだが、求女を死に追いやった3人の家臣の描き方。これが違う。リメイク版は3人ともほぼ同質の扱いだったが、オリジナル版ではそのうちの一人、彦九郎の立ち位置が目立って描かれている。
演じる丹波哲郎の冷酷な佇まいが中々良く、後半では半四郎との決闘という見せ場も用意されている。この決闘シーンにはリメイク版に無いケレンミが感じられた。特に、二人が対峙する背景に流れる雲の映像が素晴らしい。しかも、聞くところによればこの撮影には真剣が用いられたそうである
(wiki参照)。若干殺陣が弱く感じたのはそのせいかもしれない。しかし、ホンモノの迫力を出そうとした製作サイドの狙いには頭が垂れる思いである。しかも、この決闘シーンで半四郎のずば抜けた剣術を映像として見せたことは重要だと思う。その後のクライマックスでの部類の強さに、より一層の説得力をもたらすことに成功しているからだ。
一方、リメイク版の彦九郎は他の家臣と同等の扱いで、半四郎との決闘シーンも簡略化されてしまっている。
キャスト陣については、オリジナル版の方に軍配を上げたい。特に、半四郎を演じた仲代達矢、美穂役を演じた岩下志麻、勘解由を演じた三國連太郎、主要キャストはいずれも好演を見せている。リメイク版はシーンによって若干演技にブレが見られたのが惜しまれた。終始緊迫感を漂わせた演者陣のやり取りはオリジナル版の方が勝っているように感じた。
このようにリメイク版も見事な時代劇ではあったが、オリジナル版よりも優れていると感じたのは求女の切腹シーンで、他は同等、あるいはオリジナル版の方に軍配が上がってしまう。
これはあくまで想像だが、三池崇史と脚本家はオリジナル版の完成度を知っていてそれを超えようとしたのではなく、無難に作り直そうとした結果、両作品はほとんど似た作りになってしまったのではないだろうか。確かに失敗はしないやり方ではあった。
監督は小林正樹、脚本は橋本忍、撮影は宮島義勇、音楽は武満徹。錚々たるスタッフが揃っている。
小林作品には「
上意討ち 拝領妻始末」(1967日)という傑作時代劇があったが、それに勝るとも劣らぬ整然とした画面設計、静と動のメリハリを利かせた演出がここでも見られる。撮影の宮島との息の合ったコンビネーションも見事で、武満徹の音楽もミニマムながら冷徹な雰囲気を作り出し、半四郎たちの無情の思いを静かに盛り立てている。
そして、特筆すべきは橋本忍のシナリオだろう。これは原作自体が良くできているというのもあるかもしれないが、ミステリを紐解く構成は見る者を画面に引き込む高い訴求力がある。
武士道を強烈に批判した所にも面白味が感じられた。物語の時代は寛永7年、江戸時代真っただ中である。武家社会に反旗を翻す半四郎の批判行動は相当異端であったことは間違いない。しかし、彼の反抗には一定の論がある。
確かに求女のやったことはタカリでしかなかった。しかし、劇中で彦九郎が語っているように、当時ですら切腹は体面上のしきたりでしかなく、腹を切るのは名目であって実際には介錯による絶命が慣例となっていた。それなのに敢えて求女には腹を割かせた。しかも竹光で‥。半四郎はそこに憤っているのである。果たしてこの残酷なやり方が武士道と言えるのか‥と。
時代が推移すれば社会の理念は当然変わっていくものである。前時代的な理念は新しい時代では消えていく。果たして武家社会という理念が崩落の寸前にあったこの時代に、武士たちは自らの生き方をどのように考えていたのだろうか‥。おそらく相当葛藤があったに違いない。その葛藤が、武士道を批判したこのドラマから如実に読み取れて興味深かった。
理不尽なしきたりに抗した男を中村錦之助が熱演!
「仇討」(1964日)ジャンル人間ドラマ・ジャンルアクション
(あらすじ) 江戸時代、脇坂藩の馬廻組を預かっていた江崎家の二男・新八は、槍の穂先が曇っているとケチをつけられ奥野孫太夫と果し合いすることになった。結果、新八は孫太夫を殺めてしまう。乱心による私闘として処分された新八は城下町を追放され山寺に籠った。そこに剣の使い手で有名な孫太夫の弟・主馬が仇討にやって来る。
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(レビュー) お家のために命を捨てなければならなくなった武士の葛藤に迫った時代劇。
家名を重んじる武家社会を痛烈に風刺した作品である。代々受け継がれてきた家名は当時の人々にとっては命にも等しいものだった。新八はそれを汚した孫太夫を決闘で切り捨てる。しかし、孫太夫の家もやられっぱなしでは黙っていられない。今度は彼の弟・主馬が新八に決闘を申し込んでくる。こうして泥沼の遺恨が繰り広げられていく。
全ては家名を守るため‥という、個人の生き方とは何も関係がない所で引き起こされた悲劇である。本作見ると改めてこの前近代的な掟には不快感を覚えてしまう。‥と同時に、当事者の感情の中に芽生える"憎しみ″に着目すれば、人間の心の弱さをまざまざと見せつけられる。
監督は今井正。クライマックスの決闘シーンの熱度の高い演出、新八と兄・重兵衛の最後の晩餐における緊張感を漂わせた演出等、要所に卓越したセンスが見られる。屋内におけるモノクローム映像もシリアスなドラマをキリリと締め、いかにも時代劇らしい重厚な作りになっている。
脚本・橋本忍の仕事ぶりにも感心させられた。中盤で時制を前後させたトリッキーな構成が登場してくるが、このフェイントにまんまとしてやられた。正に技ありである。新八と寺の和尚のやり取りも微笑ましく書き上げられており、最後の別れにはペーソスも感じられた。
また、小道具の使い方も抜群にうまい。例えば、新八と主馬の決闘シーンにおける木の枝の使い方などは実に皮肉的である。呆気にとられると同時に一種の虚無感も感じられ、武士の尊厳を滑稽にすら見せている。また、細かい所で言えば、感情の機微を扇子の開け閉めで表現する所作にも上手さを感じた。
キャストでは新八を演じた中村錦之助の熱演が印象に残った。持ち前のワイルドさを前面に出しながら、悲運の武士を猛々しく熱演している。
特に、クライマックスにおける立ち回りは大きな見所だろう。覚悟を決めて決闘にのぞむのだが、対する奥野家の策略によって絶体絶命の窮地に追い込まれてしまう。その焦燥感、絶望感には引き込まれた。髪を振り乱して戦う姿も迫力がある。
それにしても、新八の浮かばれなさには憐憫の情を禁じ得ない。身から出た錆びと言われれば確かにそうなのだが、事が悪い方、悪い方へと転がってしまうのはどういうことだろうか‥。武家社会の因習がそうさせているのか、はたまた新八自身の運の無さか‥。あるいは彼自身の不器用な性格が事を悪い方向へと歩ませてしまった‥とも考えられる。「長いものには巻かれろ」という言葉があるが、彼もそれが出来ていればここまでの悲劇は招かっただろう。
中村錦之助の熱演もさることながら杉村春子の怪演も印象に残る。
「反逆児」(1961日)ジャンルアクション・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 戦国時代、今川義元の血筋を継ぎながら織田信長の娘・徳姫を娶った信康の苦悩は計り知れなかった。今、武田軍との戦いで功を上げた信康は岡崎の城に凱旋する。徳姫が第2子を出産し喜ぶが、二人の間には深い溝があった。今川家である信康の母・築山御前と織田家の徳姫は元々相容れない仲であり、信康は複雑な立場に立たされていたのである。築山御前は今川家再建を目論み信康の前に、しのという侍女を差し出した。実は、信康はその昔、花売り娘をしていたしのと一度だけ恋情に溺れたことがあった。
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(レビュー) 戦国時代を戦い抜いた武将の非情な運命を熱度の高いタッチで綴った人間ドラマ。
いわゆる軍記物にメロドラマ的なテイストを混入した所に本作の面白さを見出すことが出来る。母親と妻の愛に翻弄されながら家名の重圧に押しつぶされていく男の悲劇が乱世の中に活写されている。言ってしまえば実に通俗的なドラマであるが、戦国の世ならではの重みがひしひしと伝わってきて、ストーリー自体は上手くまとまっていると思った。
見所は信康を演じた中村錦之助の熱演となろう。特に、約10分に及ぶ壮絶な死に様は、やや大仰と感じるものの堂々たる熱演を見せてくれている。
そして、もう1人、彼の熱演を凌駕する人物が本作には登場してくる。それが信康の母・築山御前を演じた杉村春子である。もはやホラー的と言ってもいい怨念のこもった形相はひたすら恐ろしく、見る者に強烈なインパクトを残す。悲運の死を遂げた父の遺恨を受け継ぎ、息子に再興を託す過激な行動の数々。それに戦慄を覚えてしまった。
たとえば、祈祷師を呼んでまじないをしたり、藁人形で呪いをかけたり、果ては男児を生めない嫁・篤姫への当てつけに花売り娘を側室に迎える算段をしたりetc.杉村春子はこれを憎々しく怪演している。
惜しむらくは前半がやや上滑りしてしまうことだろうか‥。冒頭の戦闘シーンは大作感があってビジュアル的には良いと思うのだが、信康の置かれている立場、周囲の状況などを先に提示しておいたほうが入り込みやすかったかもしれない。群雄割拠する戦国武将の位置関係などもあらかじめ知っていないと分かりづらい面がある。このあたりの様々な情報は見る側に初めに提示しておいた方が親切だったかもしれない。
監督・脚本はベテラン・伊藤大輔。骨太なタッチと繊細なタッチ、両方を巧みに使い分けながらシーンを盛り上げていると思った。信康の壮絶な最期を描くクライマックス、花売り娘・しのとの出会い。この二つは動と静、対照的なシーンであるが、彼の硬軟自在な演出を味わえるという意味ではベスト・シーンであろう。
情に厚い渡世人の生き様には痺れさせられる。
「関の彌太ッぺ」(1963日)ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 人情に厚い渡世人、関の彌太郎は、川に落ちた少女お小夜を助ける。実は、彼女の父親はワケありの盗人だった。彼に全財産の50両を取られた彌太郎は後を追いかけていく。すると、そこにバクチ打ちの森介が現れて父親は切り捨てられた。森介は彼に盗まれた金銭を奪って去って行った。後に残された彌太郎は、瀕死の父親からお小夜のことを頼まれる。仕方なく彌太郎はお小夜を連れて彼女の亡き母の実家・旅籠の沢井屋へ向かうのだが‥。
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(レビュー) 何度も映画化されている有名戯曲を中村錦之助主演で描いた時代劇。尚、今回が4度目の映画化である。この後には、同じ中村錦之助(のちに萬屋錦之介)主演で原作者の名前を冠にした「長谷川伸シリーズ」の中でテレビドラマ化もされた。
何と言っても、中村錦之助が演じる彌太郎の人情味あふれるキャラクター。これに惚れ惚れさせられてしまう。見ず知らずの男の、しかも自分の全財産を盗んだ男の娘を預かり、あまつさえその子のために取り戻した財産をはたいてしまうのだから、どこまで人が良いのか‥。更には、森介に騙されていると知らずに謝礼を差し出す始末である。正直ここまでくるとお人よしにも程があるという感じがする。ただ、この純粋さ、優しさは彼の短所であると同時に、やはり普通の人には無い長所でもあるのだ。そこが見ている我々の琴線に触れてくる。
尚、彌太郎には生き別れた妹がいて、彼は小夜に度々彼女を重ねて見る。だから小夜にあそこまで親身になれるのだろう。この設定はドラマに説得力を持たせるという点では、上手く効いているように思った。
粋な所も彌太郎の魅力の一つである。花を添えて45両を置いて人知れず去っていく場面のなんと格好良いことか‥。普通ならキザ、ナルシストの極み‥となってしまう所を、錦之助の演技が上手く中和している。
映画は中盤から10年後に舞台を移して展開されていく。ここで錦之助の風貌はガラリと変わり、ひたすら荒んだ表情を貫いていく。多少メイクが過剰という気もしたが、これも中々様になっていた。妹の悲劇を知った彼が、この10年いかに無為な時間を過ごしてきたか。それがこの表情・演技からよく伝わってきた。後半は熱演と言っていいだろう。
森介を演じた木村功も適確な演技を見せている。時に彌太郎の信頼する相棒となり、時に受けた恩を仇で返す裏切り者となり、腹に一物持った俗物として描かれている。彌太郎とのコントラストも図られていて、この関係は面白く見ることが出来た。
終盤では、この森介の"ある行動″によって大きなクライマックスを迎える。ここでは"ある別れ″が描かれるのだが、この場面は日本映画史に残る名シーンとして誉れ高い。
別れの言葉を交わす画面の中央に配された花の垣根。この垣根は渡世人・彌太郎にとっての現実と理想の壁を意味するものだろう。抗えない宿命をことさら残酷に、そして物悲しく見せている。
また、ラストシーンも余韻を残した幕引きになっていて味わい深かった。彌太郎の孤高性、そして過酷な宿命を背負った渡世人としての生き様が見事に印象づけられている。
本作で難は、成人した小夜を演じた十朱幸代だろうか‥。感情の起伏が今一つ甘く見えた。対する錦之助がどちらかというと熱演派なので、それとの相性もあろう。もう少しヒロインとしての主張が欲しい。
豪傑・松五郎の生き様を見事に活写。
「無法松の一生」(1943日)ジャンル人間ドラマ・ジャンルロマンス
(あらすじ) 人力車夫の松五郎は九州小倉の名物男。警察署長と喧嘩をしたり、芝居小屋で大騒動を起こしたり、生来の豪傑さで何かと世間を賑わせていた。ある日、道端で泣いてる子供・敏雄を見つけて介抱してやる。敏雄の父は陸軍軍人の吉岡大尉だった。これがきっかけで松五郎は吉岡に気に入られ、たびたび家に招かれるようになる。吉岡の傍らには良妻賢母な妻・良子がいた。そんな幸せを絵に書いたような家族は、吉岡の突然の病死によって不幸に陥ってしまう。松五郎は彼に代わって残された母子の面倒を見るようになるのだが‥。
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(レビュー) 豪傑・松五郎の半生を描いた人情ドラマ。
夫を亡くした母子との交流を通して、喧嘩っ早くて情にもろい松五郎の人情味溢れるキャラクターがしみじみと描かれている。
監督は稲垣浩。主演は阪東妻三郎。今作は内務省の検閲で松五郎がよし子に思いを打ち明けるシーンが10分程カットされたそうである。しかし、結果として"描かない″ことでベタなメロドラマ色が抑制され、松五郎の思いにも奥ゆかしさが生まれた。おそらくこうした方が見る側も共感しやすいのではないだろうか。怪我の功名と言えるかもしれない。
尚、本作は1958年に同監督の手によってリメイクされている。その時に松五郎を演じたのは三船敏郎である。自分はそちらの方を先に見ていた。
三船版は阪妻版よりも更に猛々しくなっていて、二人のキャラクターがそのまま芝居に表れていてるような気がした。今回は幾分柔和でコミカルに造形されている。阪妻ならでの"味″であろう。
ストーリーはリメイク版も本作もほぼ一緒である。但し、松五郎の晩年は58年版の方が丹念に描かれている。43年版の方はそのあたりが淡泊で、ドラマのメリハリという点ではやや物足りなかった。前半の若かりし頃の松五郎を”動”とすれば、晩年の彼は”静”である。このギャップがリメイク版の方が上手く計られていた。物語の構成面では58年版の方を高く評価したい。
一方、オリジナル版にはリメイク版には無い優れた点がある。それは名カメラマン・宮川一夫が作り出す凝った映像演出の数々である。
所々に禍々しいトーンが表出するのだが、これはリメイク版には無い実験精神溢れる映像演出だ。
たとえば、松五郎が幼少時代を振り返る回想シーン。子供から見た"闇″に対する恐怖が一瞬現れる不気味な幻影によって表現されている。また、松五郎の末路を暗に示した終盤の眩惑的な映像も、様式美に溢れていて引き込まれた。全体のトーンからすれば浮いてるのは確かだが、インパクトはある。宮川独特の映像感性が感じられた。
尚、松五郎が最も活き活きとした表情を見せる祇園太鼓のシーンは、リメイク版共々、今回も強く印象に残った。何事にも一途な彼の気質が伺える名シーンであろう。
キャストでは、何と言っても阪東妻三郎の妙演を買いたい。
また、長門裕之(当時は沢村アキヲ名義)が少年時代の敏雄役で出演していたのは意外な発見だった。
馬鹿シリーズの第1弾。ハナ肇のキャラクターが良い。
「馬鹿まるだし」(1964日)ジャンルコメディ・ジャンルロマンス
(あらすじ) 戦争でシベリアへ行っていた風来坊・安五郎が、瀬戸内海の小さな港町にやって来る。浄念寺に一時身を置き、そこでシベリアへ行った夫の帰りを待つ美しい夏子に出会う。安五郎は彼女に一目惚れしてしまった。そんなある日、町でちょっとした騒動が起こる。名士の娘が大道芸人の怪力男と駆け落ちしてしまったのだ。名士は腕っぷしの強い安五郎に娘を取り返してほしいと頼む。安五郎は見事にこれを成し遂げ町中の人気者になった。夏子はそんな安五郎を少しだけ見直す。
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(レビュー) 山田洋次監督・ハナ肇主演の「馬鹿シリーズ」第1作。全部で3作作られたが、自分は第3作
「馬鹿が戦車でやって来る」(1964日)を先に見ている。今回もハナ肇演じる安五郎の行動がおもしろ可笑しく綴られていて楽しく見ることが出来た。
安五郎はフラリと立ち寄った町で人妻・夏子に一目惚れしてしまう。彼女に良い所を見せようと、困った人を助けるうちにいつの間にか町を牛耳る顔役のようになっていく。しかし、肝心の夏子に振り向いてはもらえず、そこに失恋男の切なさが体現されている。
元来、安五郎は単細胞で直情的な性格である。憧れの夏子に良い所を見せようとして、あれもこれも仕事を引き受けるのだが、夏子には人が良すぎると逆に諌められてしまうのだ。惚れた女に思いが届かぬというのは実に情けないものである。夏子に諌められた時の安五郎の悲しそうな顔と言ったら、まるで主人に仕える忠犬のごとき哀愁を誘う。
尚、物語の後半には重要なモティーフとして「無法松の一生」の芝居が登場してくる。それを見た安五郎は目に涙をためて感動するのだが、正に彼の方恋慕も無法松のそれと同じであろう。クライマックスでドンキホーテよろしく安五郎の危険を顧みない"ある行動″が描かれるのだが、これも実に切なくさせられた。安五郎の純粋さが伝説になっていく終盤には涙してしまった。
本作は基本的には喜劇である。ただ、こうしたペーソスは山田監督の得意とするところであり、大きな見所だ。
一方、笑い所としては、安五郎が煙突に上るクダリが最も可笑しかった。工場で働く労働者たちの争議を鎮めようと工場長に頼まれた安五郎が、煙突に上った組合のリーダーを説得しに行く。ところが、彼は高所恐怖症で上ったきり降りられない。説得どころではなく組合のリーダーに飲めない酒を飲まされて、挙句の果てに酩酊した状態で煙突から飛び降りようとするのだ。組合のリーダーも危険と感じて止む無く降りることになる。バカバカしいと言ったらそれまでだが、このバカバカしさも本作の肝である。
難は、ヒロイン夏子の心情が弱い所だろうか。安五郎を中心とした作劇になっているために、どうしても彼女の心中に迫ることが出来ない。彼女にしてみれば安五郎は恋愛の対象ではなかったのだろうが、それでも二人の仲は町中で噂になっているくらいなのだから、彼女が安五郎をどう思っていたのかは丁寧に描いた方が良かったかもしれない。このままでは少し冷淡な女性に見えかねない。
キャストは安五郎を演じたハナ肇の妙演を初め、夫々に敵役だと思った。夏子を演じた桑野みゆきの愛らしさも魅力的である。クレイジーキャッツの犬塚弘、植木等も出演しているし、渥美清もチョイ役で登場しているので役者陣は安定している。