プールサイドの人魚姫
プールサイドの人魚姫

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

詩集 天国の地図/神戸 俊樹
¥1,260


長い闘病生活を余儀なくされてきた著者が、生きる糧とした詩作。

魂の叫びの集大成!


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 昨年10月「今年の秋桜は諦めた」と言う話をしたと思うのだけれど、先日パソコンの中の写真を整理していると築地大橋の写真の中に削除した積りだったが数枚のコスモスが残っていた。その中の一枚が気になってお蔵入りするのは勿体ないと思い公開する事とした。
 花の写真を撮る時は大抵中望遠マクロのMC105mm f/2.8を使う事が多い。被写体に思い切り寄って画面から飛び出るほどの花びらや蕊(しべ)にピントを合わせたり色々工夫しながらの撮影であるが、マクロは呼吸が乱れたり手が震えたりするとブレが生じて失敗する事も多い。だから風景写真などを撮る時より遥かに難しいと思う。風が強かったりするともう最悪である。
 写真撮影は一枚の真っ更なキャンバスに絵筆を走らせる絵画に似ている。写真も絵も共通する最も重要なポイントは構図。私の場合、撮る前に気に入った被写体を見つけたら頭の中で絵を描くようにイメージする。この撮影するイメージは「今日は何を撮ろう?」と自宅でレンズを選んだり目的地を決める時から始まっている。実際に撮影している時よりこの最初の時間が一番楽しいかも知れない。
 緑一色の中にポツンと佇むピンク色の花が一輪…。被写体の存在感を際立たせるため、敢えてアップで撮る事は止めて周りの空間を出来るだけ活かし花と緑のある部分にのみピントを合わせた。フォーカスリングを回しボケ加減を決めながらの撮影。焦点距離300mm、f/6.3、シャッタースピード1/160,ISO80。望遠レンズ特有の圧縮効果で美しいボケを作り出す事が出来たと思う。幻想的、神秘的な一枚の花が何かを語り掛けているように見えて来る。
 ところで前回お知らせした通り思わぬ歯のトラブルで躓き、今年に入ってまだ一度も撮影に行っていない。カメラを始めてこんな事は初めて(足の怪我は別)である。撮りたい気持ちはあるのだが、通院回数が3倍に増えてしまい疲れている事も影響しているのだろう。1月に単焦点レンズのZ 35mm f/1.4を購入し逸る気持ちを抑えている矢先の歯科だった。その途端リズムが乱れて撮影意欲も吹き飛んでしまった…。だが、これは「無理はするな」と言う天からの警鐘と捉えてその時が来るのを待つしかない。

 

 

 

 前回の更新からすっかり間が空いてしまった為、中には『心不全で入院?』と思った方も多いのではないだろうか…。入院した訳ではないのだが1月中旬に糸切り歯の隣の差し歯が抜けてしまい翌日三井記念病院の歯科外来へ行った。抜けただけなのでその差し歯を再装着して済むものと思っていると、抜けた原因を調べるためレントゲンを撮った。すると土台の歯の根っこの方が虫歯になっており治療する事になった。簡単に終わるだろうと高を括っていると、なんと歯肉切除の手術をする事になってしまった。クラウンレングスニング(歯冠長延長術)と言う、初めて聞く内容だったため、かなり不安になった。もちろん麻酔を打っての手術だから痛みはないのであるが麻酔が切れた後、自宅に戻ってからがさあ大変!メスを入れた部分がズキズキと痛み始め、食事もまともに出来ず眠る事もままならない状況に…。

 うがい薬と痛み止めのロキソニンを処方されたが慢性腎不全を患っているので腎臓に負担を掛けるロキソニンを服用する気になれず、ひたすら痛みに堪える日々が続き、気力・集中力も落ちすっかり心身ともに疲弊してしまった。傷口を保護するためマウスピースを装着したまま過ごし食事の度に外してうがい(消毒)の繰り返し。1月下旬になって漸く痛みから解放され、現在に至っている。歯の治療はおそらく時間がかかり2月中に終わるかどうか微妙である。

 さてお台場のシンボル的象徴と言えば幾つかあるがやはり『自由の女神像』が最も目立つ存在であると思う。お台場に行ったら必ずカメラに収めるのも恒例となっているほどだ。夜間は季節によってライトアップの色が変化するため何度撮っても同じ写真にはならない。こちらに投稿した女神像はは砲台跡から撮影したレインボーブリッジの帰りに撮ったものである。約1キロはあると思われるお台場ビーチを暗闇の中スマホの灯りを頼りに歩いたので女神像に辿り着いた時は足がもつれるほど疲れていたけれど、その夜の女神像はこれまで見た事のない配色で輝いており、一気にテンションが上がりいつしか疲れは吹き飛んでいた。あらゆる方向からカメラを向けてシャッターを切った。背中は青、表は真紅と言う二色が織りなす微妙な色加減が秀逸で、時間を忘れていつまでも見とれていたほどである。満足の行く写真が撮れた時ほど気分の良いものはない。フジテレビの本社前にあるバス停からレインボーバスに乗り田町駅へと帰路に着いた。レインボーバスは障がい者無料と言うのも嬉しい。都営三田線も無料なのでお台場へ行く時は交通費が掛からないので助かっている。

 ところで最近何かとニュースやワイドショーで取り上げられているフジテレビ。週刊文春の記事を読んでいないのでいないので詳細は分からぬが中居正広氏と女性との間にどんなトラブルがあったのか、解決金として1億円近い高額な金銭を女性に支払った背景には、それ相応の被害を与えてしまった事は察しが付く。先日行われたフジテレビの「やり直し会見」は10時間にも及ぶ異例の長さであったが、トラブルの核心明言には至っておらず幾つもの疑問が残る会見となった。

 文春側も記事の一部訂正として自社の公式サイトでで声明を発表しているが、これはまるで「後出しジャンケン」である。フジテレビも文春側も雲行きが怪しくなればやはり保身に走りたくなるのは世の常であるが、今回の事案で最も傷付いているのは被害者の女性である。どれほどの金額を積まれても身体の傷は癒せても心の傷は癒せない。トラウマとなってこの先一生苦しむ事になるかも知れない。張本人の中居氏は責任を取って芸能界を引退したがそれは責任転嫁のようにも思えてくる。被害者のプライバシー保護、守秘義務などを盾にして沈黙を貫く点では中居氏、フジテレビ幹部たちも同じであった。今後どのような展開になり複数の疑問点が明らかになるのか第三者委員会の報告を待ちたいと思う。

 

 

寒中お見舞い申し上げまます。

誠に勝手ではございますが、服喪中につき新年のご挨拶は差し控えさせていただきます。

皆様にとってこの一年が最良の年になりますよう心よりお祈り申し上げます。

本年も宜しくお付き合い下さいませ。

 

 

 昨年12月初旬、九品仏浄真寺へと出向いた。こちらでの紅葉狩りは今回で確か3度目となるが、今回の撮影で今までと違うのは使用したレンズ。花、植物等の撮影ではZ MC105mm中望遠マクロをメインに使っていた。同じ被写体で同じレンズを使用した場合、どうしても前回と同じような仕上がりになるため、思い切って今回はタムロンの望遠レンズ70-300mmで撮影。手の届くほど近くのもみじは撮らず、かなり離れた歩いて近づけない所を狙ってみた。こちらに投稿した全てのphotoがそうと言う訳ではないのだけれど、昨年、一昨年の紅葉とは趣きの違った作品に仕上がったと思っている。
 九品仏浄真寺は以前にも述べた通り東京の都会に在りながらその寺院全体の佇まいに静寂が漂っており、東京の『小京都』と言われる所以である。ライトアップされて暗闇に浮かび上がる真っ赤な紅葉も神秘的で興味を唆るのだが、こちらの寺院ではライトアップ等のイベントはない。頭に覆いかぶさって来るように生い茂った樹木や枝葉で太陽の光りが遮れら、まるで闇夜の中で撮影した?と勘違いしてしまいそうな光と影のコラボレーションは人工の光では到底及ばない、自然の美しさを醸し出している。
 都内で2番目に人気のある紅葉スポットだけあって、平日であっても多くの観光客が訪れ、賑を見せている。深い秋に色付いた楓やもみじに眼を奪われ口を閉じてじっと見詰めるその視線の先には、照れ笑いを隠す少女の紅く染まった頬が見て取れる。静寂の余韻に包まれながら、シャッターの音が心地よく胸に響いた一日であった。

 

 

 お台場へは年に数回訪れる。都内でも人気の観光地であるため、国外からの観光客も多い。年代的にはやはり20~50代の人が多く若いカップル達をよく見かける。ビーチから眺める海とそしてレインボーブリッジ、夏であればその海に多くの屋形船が連なるように浮かぶ。お台場海浜公園の夜景は特に美しく時間の経過も忘れてファインダーを覗きカメラのシャッターを切る。
 この日はお台場の最も近い位置からレインボーブリッジを撮る事が目的だったので、砲台跡のある先端までひたすら歩き目的地へと向かった。『お台場』の由来は江戸時代ペリー艦隊の来航が切っ掛けとなり、江戸幕府が江戸湾の防備強化のために築いた『品川台場』だそうである。その砲台跡の更に先端(海沿い)まで行き撮影ポイントを物色。松林に囲まれた辺りには人影は殆どなく、周りを気にせず撮影する事が出来た。夕暮れ時ではあったが、思い描いていた夕陽には見放されてしまったようで沈む夕陽の赤がレインボーブリッジとお台場の海を赤く染めてくれるのを期待したのだが、その点が残念であった。
 ファインダーを覗いている時は気付かなかったが、レインボーブリッジの遥か向こうに東京タワーが赤く光っている。時計が18時を回った頃、レインボーブリッジが白色でライトアップされて一際その存在感を醸し出してくれた。午後19時を過ぎすっかり陽が落ちると辺りは漆黒の闇に包まれた。砲台跡の辺りには街灯も殆どなく、撮影を終えて帰路につく時、足元が真っ暗で転倒しないよう細心の注意を払ってゆっくり歩いた。数年前、真っ暗な中でカメラを抱えたまま階段で滑って転倒し大怪我を負った時の事が脳裏を過った。右足が腫れ上がり骨折はしなかったものの痛みで夜もまともに眠れず地獄のような一ヶ月だった。あの時はミラーレス一眼を買ったばかりでカメラを守る為に身体を張ってしまった結果だった。その時の傷跡は未だに消えず右足に残っている。怪我をする前の元の足にはもう戻ってくれないようだ。写真を撮る時、皆さんも足元には十分注意して下さいませ。
※今年一年、当ブログにお越し頂きありがとうございました。来年も引き続き宜しくお願い致します。

 

 

 毎年11月中旬辺りになると喪中ハガキが届くのだが今年は何の気配もなく過ぎたので、そろそろ年賀状の準備をと思っていた矢先の事だった。藤枝在住の従姉から連絡があった。喉を詰まらせ嗚咽の混じった震える声で「政人が亡くなった…」。私は暫く返す言葉が出ず従兄の顔が走馬灯の様に脳裏を駆け巡った。数年前に直腸癌が発覚し治療に専念し一旦は回復したものの、その後再発。そして再び抗がん剤等で治療を続けていたがその甲斐もなく僅か3ヶ月で力尽きてしまったと言う。60代にして命を落とすとは本人が一番無念の思いだったろうと思う。
 従兄はプロのサッカー選手だった。ジュビロ磐田の母体であるヤマハ発動機で活躍。絶頂期には「FWの神戸」と呼ばれ試合の度に新聞のスポーツ面を賑わせていた。小学生の時、サッカーボールを追い掛けて広いグラウンドを縦横無尽に走り回る姿を思い出す。そんな従兄を私は教室の窓から恨めしそうに眺めていた。自分は心臓が悪いため運動は禁止。体育の時間はいつも一人教室に取り残されていた。そんな私とは対象的な従兄は身体も大きく健康に恵まれ足も速かった。
 サッカーボールに自分の夢を乗せて走る姿が眩しかった。中学を卒業すると静岡中の高校からスカウトが殺到。勿論サッカーの名門「藤枝東高」も当然その中に含まれたが、何と父親が藤枝北高に勝手に決めてしまったようだ。本人はやはり藤枝東に行きたかったと後で聞かされた。
 そしてその勢いのままヤマハ発動機に入社しプロデビューを果たす。自分の夢を実現した18歳の若者は自信に満ち溢れ己の信ずる道を突き進んだ。そして月日は流れ従兄にとって最初の試練に遭遇する事となる。やはり従姉「三千代」からの電話だった。「政人が脳内出血で緊急入院」の知らせ。入院先はなんと私が最初の心臓手術を受けた「静岡市立病院」。私はその翌日新幹線に飛び乗りお見舞いへと急いだ。ベッドの傍らには従兄の奥さんが心配そうに付き添っており、私に一礼した。白い鉄パイプで出来た病院のベッドが妙に懐かしく感じる。従兄の意識はハッキリしているものの口が聞けず半身麻痺の状態だったが、私をひと目見るなりその大きな眼を更に大きくして驚きその内、涙をポロポロと溢し始めた。私が来ることは知らなかったようで、嬉しかったのだろうと思う。闘病生活の長い私は自分が誰かを見舞う事は滅多になく、いつもその逆でお見舞いばかり頂いているため、見舞うことの尊さ有り難さをこの時に初めて実感した。
 従兄は見た目は少し怖い部分もあったが、心根は実に優しく思い遣りに充ちていた。私の父が亡くなった時、真っ先に駆け付けてくれ「何かあったら俺に相談しろよ」と父の亡骸の前で小さく震えていた自分を温かく励まし力付けてくれた。サッカーで鍛えた強靭な身体の持ち主だった事から半身麻痺からの回復も早かった。自宅に戻ってからはリハビリの日々だったが、言葉も話せるようになり杖を付きながらも自力で歩けるまでになった。ただ、懸念として残ったのは病気知らずの健康な身体に恵まれた事が従兄にとっては仇となり自信過剰になっていたのではないかと思われる。
 人生は枯れ葉の如し、散って土に還る。従兄はきっと今頃は空の彼方でサッカーボールを追い掛けているかも知れない。心より御冥福をお祈り申し上げます。
※暫くの間、喪に服すため新年のご挨拶は控えさせて頂きますので宜しくお願いします。

 

 

 10月もそろそろ下旬に差し掛かった頃、秋桜を撮るため浜離宮恩賜庭園へと向かった。ところがキバナコスモスは生い茂る様に咲いていたのだが私の目的だったピンク色の秋桜は何処を見渡しても咲いておらずすっかり意気消沈し、早々に庭園を後にした。時間的に暗くなるまでには十分余裕があったので庭園からかなり近い所に築地大橋があるため、気持ちを切り替え橋へと向かった。橋の中央辺りまでは長い緩やかな上り坂なのだが、これが私にとってはかなりキツイ。息切れと早まる鼓動を鎮めつつやっと中央に辿り着いた。隅田川を行き交うクルーズ船に向けてシャッターを切った。コロナが蔓延していた頃は隅田川からクルーズ船の姿が消え川面から寂しい波の音だけが虚しく木霊していた。
 そんな数年前の出来事が嘘のようにクルーズ船が波を切って勢いよく走って行く。まるで通勤時間帯の電車のようにひっきりなしに行き交っている。そんな日常の穏やかな風景をカメラに収めていた時だった。勝どき方面から一人の男性がやって来た。褐色の肌と精悍な顔付き。ひと目で日本人ではない事は分かった。私の前を見向きもせず通り過ぎ少し行った所で立ち止まり、スマフォをかざして撮影を始めた。夕陽が西に沈みかけ辺りに一日の終りを告げ始める。これはシャッターチャンスだと思い彼の横顔にピントを合わせパシャリと一枚。夕暮れの中に佇む男性、異国の風に吹かれて何を想っているのだろう。
 彼は私から5m以上離れた所に立ち東京湾に沈みゆく夕陽を眺めていた。その夕日に照らされ褐色の精悍な彫りの深い顔がより一層際立っていた。撮影許可を取らずいきなりだったので、撮影後直ぐに彼の傍に行き撮ったphotoを見せると大変喜んでくれた。「Where are you from?」とへったくそな英語で質問すると「タイから来ました」と日本語の返事にびっくり。そこからは日本語での会話となった。彼はMello君といい、明日タイへ帰国すると言う。日本語がとても上手なので何度も日本へ来ているのだろうと思った。タムロンの300mm望遠レンズだったのでかなり離れた場所からの撮影。焦点距離は260mm、絞り6.3、シャッタースピードは1/100。ポートレートには単焦点レンズがオススメのようだが離れた場所からの撮影が出来る望遠レンズも良いものだと分かった。欲を言えば1.8位の明るいレンズであれば闇の中でも三脚なしで撮れるだろう。

 

 

 

 

 昨年の秋に初めて彼岸花を撮ったが、その切っ掛けは若くして自ら死を選んだ母の想いについて記したかったから。母親の思い出は幼い頃の記憶を探っても何一つ見当たらなかったが母の後ろ姿だけは今も心の中に刻み込まれている。今回は父について…。11月5日は42歳で亡くなった父の命日。父(信夫)については過去の記事で何度も書いて来たが、パトカーをタクシー代わりに使って静岡から藤枝に帰った時の事が最も印象深く残っている。
 それは私が15歳の時だった。養護学校を卒業し清水市駒越にあった療養型職業訓練施設に入所していた頃、――静岡県警藤枝署は15日、同県藤枝市本118、住吉会系組織暴力団極東会桜組み幹部・神戸信夫(39)を恐喝容疑で逮捕した。取り調べによると、調理師である山崎忠雄さん(29)に調理の仕事を依頼したが断わられた為、再三に渡り因縁を付け仕事を手伝わなければ金を出せと脅したと言う――。
 上記の内容が静岡新聞朝刊の三面記事に掲載され父の顔写真まで乗っていたため、紛れもない事実だと受け止めるしかなかった。酒に溺れて身を持ち崩してしまった父ではあったが、人様を傷つけるような乱暴を働いた事は暴力団同士の争いは別としても普段は優しく借りてきた猫の様に大人しく優しい父の人柄を考えるとこの記事には疑念が残った。馬鹿が付くほどお人好しで利用され易い人格で人から依頼ごとを受けると断れない質のため、この時も過去の事件同様に他人の罪を被ったのだろうと思った。刑期を終えて出所日が決まり静岡刑務所を出た後まっすぐ藤枝に帰らず静岡市内の酒場に立ち寄り久しぶりの酒で飲み過ぎてしまい酔った勢いでパトカーを呼び出しそのまま乗り込み藤枝の実家まで送り届けてもらったらしい。酒のせいで気が大きくなりそんな大胆な行動が出来たのだろう。人前では絶対に泣き顔を見せない父だったが、私の前では酔いつぶれながらも顔を涙でグシャグシャにしながら「雪、雪…」と必ず母の名を呼んでいた。それほど母の事を愛していたのかも知れないけれど、母が父の元を去ったのは全て父の自業自得であった。
 葬儀場で最後のお別れで父の顔を見た時、それまでグッと堪えていた悲しみが堰を切った様に溢れ出し涙が止め処なく流れた。待合室で約2時間私は号泣。そんな私を囲む多くの人達は掛ける言葉も見当たらず私の鳴き声だけが葬儀場に響き渡っていた。
※『小説・傷だらけの鎮魂歌』より一部内容を抜粋した。ヒガンバナについて彼岸花・曼珠沙華の呼び名がなぜ二つ存在するのか分からなかったため調べてみると正式名は彼岸花であるが、曼珠沙華はサンスクリット語で『赤い花』と言う意味だった。これで少し花音痴から一歩前進した気がする。

 

 

 

 向日葵が咲く時季になると必ず訪れるのが葛西臨海公園。昨年その時期はペースメーカー植え込み等で入院中だったため今回は2年振りとなる。目的はひまわりの撮影だったのだが、時期が遅すぎたようでひまわり畑は元気のない俯いた顔ばかりが目立った。と、同時に人気の観光地なので、訪れる人も多く若い女性たちが畑のあちこちで見受けられた。多分、国外からの観光客もかなり多いように思われた。
 ひまわり畑の直ぐ近くに日本最大級と言われる『ダイヤと花の大観覧車』があり、向日葵の背景に観覧車を入れて写真を撮る人も多かった。一眼レフを始める前、2018年の春だったか、ポピーと観覧車のコラボをスマフォで撮影したが、それが初めての観覧車撮影だった。
 今回はその目的だった向日葵を諦め、風景撮影に徹する事にしたがやはり陽が落ちてからライトアップされる大観覧車は圧巻である。長時間露光で撮影すると観覧車が高速回転しているように見えるのが面白い。花火のようにも見えるし、池の水面に映り込む逆さ観覧車も実に美しい。幾度となくこの観覧車を撮っているのに過去の写真と比べても全く同じに見えないのは、その日の天候や使うレンズによって被写体の表情が変化するので何度撮っても飽きる事がない。
 使用したレンズは中国メーカーのLAOWA14mm超広角単焦点レンズ。小さくて軽いため、心臓の悪い私にとっては有り難いレンズである。絞り羽が5枚と言う点もお気に入りで10本の光芒が鋭く伸びる情景は正に光の帯である。電子接点が無いためピントも絞り値も全てマニュアルとなる。使い始めは戸惑ったが今は設定ミスもなく使いこなしている。夜景撮影の殆どはこのレンズを使用している。そう言えばお台場の観覧車は解体されてしまったが、その跡地は今どうなっているのだろう。パレットタウンとして人気の高かったお台場の象徴でもあったあの観覧車、その近くにはユニコーンガンダム像があり、私も何度かカメラに収めている。割と最近、小池都知事の発言で知ったのだがお台場に巨大噴水を建てると言う計画が進んでいるようだ。世界最大級になるらしいからその完成が楽しみである。

 

 

 東京に40年ほど住んでいるがこれまで上野の不忍池に一度も訪れる事はなかった。子ども達がまだ幼い頃には上野動物園に家族4人で時々出掛ける程度だった。不忍池に特別な興味もなかったのだが、SNSに投稿された写真の中に蓮の花が多く目立っており、その清らかで神秘的な美に魅入られてしまい自分もカメラに収めたくなった。チューリップの時もそうだった様に蓮の花を私はまだ一度も撮った事がない。何処へ行けばあの美しいピンクの花を撮る事が出来るだろうかと、その日から頭の中は蓮の花で一杯になった。
 ネットで調べるとトップに表示されたのが不忍池だった。蓮自体は私の故郷である藤枝の『蓮華寺池』が地元では有名で、子どもの頃、池に入り蓮の実を取ってオヤツ代わりに食べていた事を思い出す。極貧でその日の食事もままならないいつも腹を空かせて涙を流していた小学生だった私。蓮の実を生のまま口に放り込んでいたが、それだけで空腹が満たされる訳もなく乞食のような日々だった。それでも栄養価の高い蓮の実のお陰で苦難を乗り切る事が出来た部分もあったのだろう。まさに『仏様の花』である。
 天気も上々で申し分のない撮影日和。レンズを2本携えて不忍池へと出掛けた。初めて眼にする池は想像していたより遥かに広かった。池一面に蓮の緑で埋め尽くされて、肝心の蓮の花が見つからない。「時季が早すぎた?遅すぎた?」とイメージ通りの花を発見出来ず途方に暮れてしまった。それでも折角ここまで来たのだからと、辯天堂に寄ってお参りしてから帰ろうと思った。
 辯天堂の少し手前の左の方に手水舎があるのに気付き、その龍神様に向けてシャッターを切った。撮影を終えた後、龍の口から流れ出る水で手を洗い口に含み身体を清める気分に浸った。ここで花音痴である私の無知がまたもさらけ出てしまったのだが、蓮の花は午前中に開花し、午後には閉じてしまう事を初めて知った。こちらの都合に合わせて咲いてくれる花ばかりではない事を改めて痛感した。
 因みにアップした蓮の花の写真は不忍池ではなく『小石川後楽園』にて撮影したものである。近づいてアップで撮りたかったが池に入る訳にもいかず、タムロンの300mm望遠レンズで撮影した。レンズの圧縮効果が前ボケ後ボケを演出してくれており、まさに神秘的・幻想的な蓮の花となってくれた。
 そう言えば10月5日で三尖弁手術から2年が経った。月日の流れが早すぎて気持ちが追付いてくれないが、頑張ってくれている今の心臓に感謝しよう。

 

 

 Nikon公認ニッコールクラブ静岡支部の写真展が18日大盛況の内に幕を閉じた。12~18日の開催期間中にギャラリーへ足を運んでくれた方は300人を超えた。この数字が多いか少ないかは私には分からないがクラブの諸先輩方が口を揃えて「大成功!」と語っていたので目標を達成出来たのであろう。私の友人である養護学校時代の同窓生数人、ブログを通じて知り合った方も数人が訪れれてくれ自身のブログで写真展の紹介をしてくるなどして応援を頂き感謝の極みである。同窓生とはお会いする事が叶わなかったのは残念で欲を言えば5年前の様に『プチ同窓会』が出来たら尚更の事よかったのだが…。

 一眼レフデビュー5年と言う節目にあって目標に掲げていた写真展が現実のものとなり、節目を締め括るに相応しい年となった。普段パソコンやスマフォで見ていた写真が、A3サイズの紙に印刷されるとそれは全く別次元の写真へと生まれ変わる。自分の作品でありながら客観的な視座で捉える事が出来、新たな発見に繋がるのである。それにしてもメンバーの皆さんそれぞれ固有の視点で作品を生み出すそれは研ぎ澄まされた感性の豊かさあってこそのものであるだろう。

 15日、正午の新幹線で一路静岡へ、13時少し過ぎに静岡着。ところが故郷に戻っても私の方向音痴が邪魔をした。ギャラリーは北口から徒歩7分と近いにもかかわらず、馬鹿な私は南口に出てしまい右往左往して散々遠回りし13時30分にギャラリー着。東京も暑いが今年の静岡はバカが付くほど猛烈に暑い…。背中には10キロを有に超える重たい荷物が汗塗れの私の脚を引っ張る。冷房の効いたギャラリーに着き、ホッと胸を撫で下ろしたものの心臓はバクバクで破裂しそうな息切れ。ソファで暫く呼吸を整えたのち息子とご対面。息子は訪れたお客様への対応に追われ、私と会話する時間がなく、ゆっくり会話が出来たのはギャラリー閉館後の事だった。

 そして翌日16日は藤枝在住のカメラ歴55年を超える大先輩と一緒に再びギャラリーへ。私の写真を見て「随分腕を上げたな!おれにゃあこういう写真は撮れんよ」と静岡弁丸出しで褒めちぎってくれた。ギャラリーを出た後、時間がたっぷりあったので先輩の車で日本平へ。一番高い展望台から天気の良い日であれば清水港と富士山が見渡せる筈だったのだが、空一面を灰色の分厚い雲が覆い雨まで降り出して来た。この日ばかりは運に見放された気がして、一気に疲れが出て早めにホテルに戻った。調子が良ければ17日は藤枝へ行き墓参りの予定だったが余りの疲労感に歩くのも辛いほどだったので11時の新幹線で帰路に着いた。疲れが取れるまで1週間も掛かってしまい体力・筋力の衰えを痛感した。