123 箴言 その7 幸田露伴『努力論』より、惜福
- 2015/11/02
- 06:14
他人を利用して自分が得をするのが賢い生き方だと言う人が世間に多くて、
そういう人が自分の上司で、
もうおこったぞう
どかーん!
(⌒⌒⌒)
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/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
| ・ U |
| |ι |つ
U||  ̄ ̄ ||
 ̄  ̄
もう怒った象@アスキーアートキャラクター
に、なる前に、昔の偉い人が遺した教えを読んで、心を落ち着けましょうぞ。
------------
[082の記事]と同じく、幸田露伴の『努力論』より『惜福』の部分を御紹介申し上げます。
太字にしてあるところが、私が大推薦する箇所であります。
・・・
人の社会に在って遭遇する事象は百端千緒であるが、一般俗衆がややもすれば発する言語の『福』といふものは、社会の海上に於て、無形の風力によって容易に好位置に達し、又は権勢を得、富を得たるが如き場合を指すので、彼は福を得たといふものは、即ち富貴利達[財産があって身分が高いこと]、若くは富貴利達の断片的なるものを得たといふのである。
福を得んとする希望は決して最も立派なる希望では無い。世には福を得んとする希望よりも猶幾層か上層に位する立派な希望がある。併[しか]し上乗の根器[教えを受ける素養]ならざるものに在っては、福を得んとするも決して無理ならぬことで、しかも亦[また]敢て強[あなが]ちに之を批難排撃すべき事でも無い。福を得んとするの極、所謂淫祠邪神[いんしじゃしん]に事[つか]ふるをも辞せずして、白蛇に媚び、妖狐に諂ふ如きに至っては、其の醜陋なること当り難きものであるが、滔々たる世上幾多の人が、或は心を苦め、或は身を苦め、営々孜々として勉め勤めてゐるのも、皆多くは福を得んが為なのであると思へば、福に就て言を為すも亦徒爾[無益・無駄]ではあるまい。
上は徳を立て、其の次は功を立て、又其次は言を立つるとある。およそ此等の人々に在つては、禍福吉凶の如きは抑ゝ[そもそも]末なるのみで、余り深く立入つて論究思索する価も無いことで有らう。若し又単に福を得んことにのみ腐心して之を思ふに至らば、蓋[けだ]し其の弊や救ひ難きものあらんで、論究思索も、単に、「如何にして福を得べきや」といふことのみに止まったらば、或は人間の大道を離れて邪路曲径に入るの虞が有らう。本来から言へば、事に処し物に接するに於て吾人は須らく『当不当』を思ふべきで、『福無福』の如きは論ぜずして可なる訳であるが、ここに幸福の説をなすものは、愚意[私見を謙って言う言葉]所謂落草の談[俗人の為に仏教を噛み砕いて言う話]をなして人をして道に進ましめんとするに他ならぬのである。甚しく正邪を語れば人をして狷介偏狭ならしむるの傾がある。多く禍福を談[かた]れば人をして卑小ならしむるの傾がある。言をなすも実に難い哉であるが、読む人予が意を会して言を忘れて可なりである。
幸福不幸福といふものも風の順逆と同様に、畢竟[つまり]は主観の判断によるのであるから、定体は無い。併し先づ大概は世人の幸福とし不幸とするものも定まって一致して居るのである。で、其の幸福に遇ふ人、及び幸福を得る人と然らざる人とを観察して見ると、其の間に希微の妙消息が有るやうである。第一に幸福に遇ふ人を観ると、多くは『惜福』の工夫のある人であつて、然らざる否運の人を観ると、十の八九までは、少しも惜福の工夫の無い人である。福を惜む人が必らずしも福に遇ふとは限るまいが、何様[どうも]惜福の工夫と福との間には関係の除き去る可からざるものが有るに相違ない。
惜福とは何様[どう]いふものかといふと、福を使ひ尽し取り尽して終[しま]はぬをいふのである。たとへば掌中に百金を有するとして、之を浪費に使ひ尽して半文銭も無きに至るがごときは、惜福の工夫の無いのである。正当に使用するほかには敢て使用せずして、之を妄擲浪費せざるは惜福である。吾が慈母よりして新たに贈られたる衣服ありと仮定すれば、其の美麗にして軽暖なるを悦びて、旧衣猶ほ未だ敝[やぶ]れざるに之を着用して、旧衣をば行李[衣装箱]中に押まろめたるまま、黴と垢とに汚さしめ、新衣をば早くも着崩して、折目も見えざるに至らしむるが如きは、惜福の工夫の無いのである。慈母の厚恩を感謝して新衣をば浪[みだ]りに着用せず、旧衣猶未だ敝れざる間は、旧衣を平常の服とし、新衣を冠婚喪祭の如き式張りたる日に際して用ふるが如くする時は、旧衣も旧衣として其の功を終へ、新衣も新衣として其の功を為し、他人に対しても清潔謹厳にして敬意を失はず、自己も諺に所謂『褻[け]にも晴にも』ただ一衣なる寒酸の態を免るるを得るのである。是の如くするを福を惜むといふのである。
樹の実でも花でも、十二分に実らせ、十二分に花咲かす時は、收穫も多く美観でもあるに相違無い。併しそれは福を惜まぬので、二十輪の花の蕾を、七八輪も十余輪も摘み去って終ひ、百顆の果実を未だ実らざるに先立つて数十顆を摘み去るが如きは惜福である。花実を十二分ならしむれば樹は疲れて終ふ。七八分ならしむれば花も大に実も豊に出来て、そして樹も疲れぬ故、来年も花が咲き実が成るのである。
『好運は七度人を訪ふ』といふ意の諺が有るが、如何なる人物でも周囲の事情が其の人を幸にすることに際会することは有るものである。其の時に当って出来る限り好運の調子に乗って終ふのは福を惜まぬのである。控へ目にして自ら抑制するのは惜福である。畢竟福を取り尽して終はぬが惜福であり、又使ひ尽して終はぬが惜福である。十万円の親の遺産を自己が長子たるの故を以て尽く取って終って、弟妹親戚にも分たぬのは、惜福の工夫に欠けて居るので、其の幾分をば弟妹親戚等に分ち与ふるとすれば、自己が享けて取るべき福を惜み愛[いつくし]みて、之を存留して置く意味に当る。これを惜福の工夫といふ。即ち自己の福を取り尽さぬのである。他人が自己に対して大に信用を置いて呉れて、十万円位ならば無担保無利息でも貸与して呉れようといふ時、悦んで其の十万円を借りるのに毫も不都合は無い。しかし其は惜福の工夫に於ては欠けて居るのであって、十万円の幾分を借りるとか、乃至は或担保を提供して借りるとか、正当の利子を払ふとかするのが、自己の福をば惜む意味になる。即ち自在に十万円を使用し得るといふ自己の福を使ひ尽さずに、幾分を存留して置く、それを惜福の工夫といふものである。倹約[自分への節約]や吝嗇[他人への物惜しみ・ケチ]を、惜福と解してはならぬ、すべて享受し得べきところの福佑を取り尽さず使ひ尽さずして、之を天と云はうか将来といはうか、いづれにしても冥々たり茫々たる運命に預け置き積み置くを福を惜むといふのである。
是の如きは当時の人の視て以て迂闊なり愚魯なりとすることでも有らうし、又自己を矯め飾り性情を偽はり瞞くことともするで有らうが、真に迂闊なりや愚魯なりやは、人の言語判断よりも世の実際が判断するのに任せた方が宜しい。又聖賢の如き粹美の稟賦[天性の性質]を以って生れて来ぬものは、自然に任せ天成に委ねてはならぬ。曲竹は多く※(隱の下に木)括[のだめ]を施さねばならぬ。撓め正さずして宜いのは、唯真直な竹のみである。粗木は多く※(髟の下に休)漆塗染[きゅうしつとせん]するによって用をなす。其儘で好いのは、唯緻密堅美な良材のみである。馬鹿々々しい誇大妄想を抱いて居るもので無い以上は、自己をみづから矯め、みづから治めるのを誰か是ならずとするものが有らうか。
それらの論は姑[しば]らく之を他日に譲りて擱き、兎に角上述したる如き惜福の工夫を積んでゐる人が、不思議にまた福に遇ふものであり、惜福の工夫に欠けて居る人は不思議に福に遇はぬものであることは、面白い世間の実際の現象である。試みに世の福人と呼ばるる富豪等に就て、惜福の工夫を積んで居る人が多いか、惜福の工夫を積まぬ人が多いかと糾して見れば、何人も忽にして多数の富豪が惜福を解する人であることを認めるで有らう。
(中略)
梁肉を貪り喰ひ、酒緑燈紅の間に狂呼して、千金一擲、大醉淋漓せずんば已まざるが如きは、豪快といへば豪快に似たれども、実は監獄署より放免せられたる卑漢が、渇し切ったる娑婆の風味に遇ひたるが如く、十二分に歓を※(声の右に殳でその下に缶)[つく]せば歓を※つくすだけ、其の状寧ろ憫む可く悲しむ可くして、寒酸の気こそ余り有れ、重厚のところは更に無いのである。器小にして意急なるものは、余裕有る能はざる道理であるから、福を惜むことの出来ないのは即ち器小意急の輩で、福を惜むことの出来るのは即ち器大に意寛なるものである。新に監獄を出たるものが一醉飽を欲するは人の免れぬ情であらうが、名門鉅族[豪族]の人は、美酒佳肴前に陳[つら]なるも、然のみ何とも思はざるが如くである。此の点より観れば、能く福を惜み得るに於ては其の人既に福人なのであるから、再三再四福に遇ふに至るも、怪むべきでは無いのである。試に世上を観るに、張三李四[よくある張家の三男坊とよくある李家の四男坊=平凡な一般の人]の輩、たまたま福に遇ふことは無きにあらざるも、其一遭遇するや、新に監獄を出でし者の醉飽に急なるが如く、餓狗の肉に遇へるが如く、猛火の毛を燎[や]くが如く、直に其の福を取り尽し使ひ尽さずんば已まないのである。そこで土耳古[トルコ]人の過ぎたる後には地皆赤すといふが如く、福も亦一粒の種子だに無きやうにされ了[おわ]るのであるから、急には再び福の生じ来らぬやうになるも、不思議は無いのである。
魚は数万個の卵を産するものであるが、それでさへ惜魚の工夫が無くて酷漁すれば遠からずして滅し尽すものである。まして人一代に僅に七度来るといふ好運の齎らすところの福の如きが、惜福の工夫無くして、福神を酷待虐遇するが如き人に遇つて、何ぞ滅跡亡影せざらんやである。禽は禽を愛惜する家の庭に集り、草は草を除き殘す家の庭に茂るのである。福もまた之を取り尽さず使ひ尽くさざる人の手に来るのである。世上滔々福を得んと欲するの人のみであるが、能く福を惜む者が若干人か有らう。福に遇へば皆是新出獄者の態をなす者のみである。たまたま福を取り尽さざるものあれば、之を使ひ尽すの人であり、又福を使ひ尽さざるの人であれば、之を取り尽すの人であつて、真に福を惜む者は殆ど少い。世に福者の少いのも無理の無いことである。
個人が惜福の工夫を欠いて不利を享くる理は、団体若くは国家に於ても同様で無ければならぬ。水産業は何様[どう]である。貴重海獣の漁獲のみに力めて、保護に力めなかった結果は、我が邦沿海に、臘虎[ラッコ]膃肭臍[オットセイ]の乏少を来したでは無いか。即ち惜福の工夫無きために福を竭して終ったのである。蒸気力トラウル漁獲[トロール、底引き網漁]に力めた結果、欧州、特に英国に於ては海底魚の乏少を致して、終に該トラウル船を遙に日本などに売却するを利益とするに至ったのも、即ち福を竭して不利を招いたのである。山林も同様である。山林濫伐を敢てして福を惜まなかった結果は、禿山渇水を到所[いたるところ]に造り出して、土地の気候を悪くし、天候を不調にし、一朝豪雨あるに至れば、山潰え水漲りて、不測の害を世間に貽[おく]るに至るではないか。樹を伐れば利益は有るに相違無からうが、所謂惜福の工夫を国家が積んだならば、山林も永く栄茂するで有らう。魚を獲れば利益が有るには相違無からう、が、これも国家が福を惜んだならば、水産も永く繁殖することで有らう。山林に輪伐法あり、擢伐法[抜く・伐採する]あり、水産に画地法あり、限季法あり、養殖法あり、漁法制度ありて、此等の事を遂行し、国福を惜めば、国は福国となる理なのである。
軍事も同様である。将強く兵勇なるに誇って、武を用ひる上に於て愛惜する所が無ければ、終には破敗を招くのである。軍隊の強勇なるは一大福である。併し此の福を惜む工夫が無ければ、武を黷[けが]すに至る。武田勝頼は弱将や愚将ではなかった。ただ惜福の工夫に欠けて、福を竭し禍を致したのである。長篠の一戦は、実に福を惜まざるも亦甚しいものであつて、馬場山縣を首[はじめ]とし、勇将忠士は皆其の戦に死した為、武田氏の武威は其後復[また]振はなくなったのである。将士忠勇にして武威烈々たるのは一大福であるが、之を惜まざれば、福の終に去ることは、黄金を惜まざれば、黄金の終に去ると同じ事である。那破崙[ナポレオン]は曠世の英雄である。武略天縦、実に当り難きの人であったが、矢張り惜福の工夫には乏しかったので、魯國[ロシア]への長駆に武運の福は尽き去って終った観がある。我が邦は陸海軍の精鋭をもって、宇内[天下世界]の強国を驚かして居る。併しこれとても惜福の工夫を欠いたならば、水産山林と同様の状態に陷るべきは明瞭である。雄将忠卒も数限りは有り、金穀船馬も無限に生ずるものでは無い。まして軍隊の精神は麪麭[パン]を燔[や]くやうに急造し得るものでは無い。陸海軍の精鋭は我が邦の大幸福であるが、之を愛惜するの工夫を欠いたならば寒心すべきものがある。福を使ひ尽し取り尽すといふことは忌む可きであつて、惜福の工夫は国家に取っても大切である。
何故に惜福者はまた福に遇ひ、不惜福者は漸くにして福に遇はざるに至るで有らうか。此はただ事実として吾人の世上に於て認むることで、其の真理の鍵は吾人の掌中に所有されて居らぬ。併[しか]し強ひて試に之を解して見れば、惜福者は人に愛好され信憑さるべきもので有って、不惜福者は人に憎悪され危惧さるべきものであるから、惜福者が數ゝ[しばしば]福運の来訪を受け、不惜福者が終に漸く福運の来訪を受けざるに至るも、自ら然るべき道理である。
・・・
没後50年経過して著作権切れですので、[青空文庫]または[GoogleBooks]で読めます。
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『土耳古人の過ぎたる後には地皆赤す』って、
おいおい、そんな事ないで!トルコ人は義理に篤い良い人よ!と、紀南の私は思います。
参考:エルトゥールル号遭難事件[ウィキペディア]/秋山真之[ウィキペディア]
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に、なる前に、昔の偉い人が遺した教えを読んで、心を落ち着けましょうぞ。
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[082の記事]と同じく、幸田露伴の『努力論』より『惜福』の部分を御紹介申し上げます。
太字にしてあるところが、私が大推薦する箇所であります。
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人の社会に在って遭遇する事象は百端千緒であるが、一般俗衆がややもすれば発する言語の『福』といふものは、社会の海上に於て、無形の風力によって容易に好位置に達し、又は権勢を得、富を得たるが如き場合を指すので、彼は福を得たといふものは、即ち富貴利達[財産があって身分が高いこと]、若くは富貴利達の断片的なるものを得たといふのである。
福を得んとする希望は決して最も立派なる希望では無い。世には福を得んとする希望よりも猶幾層か上層に位する立派な希望がある。併[しか]し上乗の根器[教えを受ける素養]ならざるものに在っては、福を得んとするも決して無理ならぬことで、しかも亦[また]敢て強[あなが]ちに之を批難排撃すべき事でも無い。福を得んとするの極、所謂淫祠邪神[いんしじゃしん]に事[つか]ふるをも辞せずして、白蛇に媚び、妖狐に諂ふ如きに至っては、其の醜陋なること当り難きものであるが、滔々たる世上幾多の人が、或は心を苦め、或は身を苦め、営々孜々として勉め勤めてゐるのも、皆多くは福を得んが為なのであると思へば、福に就て言を為すも亦徒爾[無益・無駄]ではあるまい。
上は徳を立て、其の次は功を立て、又其次は言を立つるとある。およそ此等の人々に在つては、禍福吉凶の如きは抑ゝ[そもそも]末なるのみで、余り深く立入つて論究思索する価も無いことで有らう。若し又単に福を得んことにのみ腐心して之を思ふに至らば、蓋[けだ]し其の弊や救ひ難きものあらんで、論究思索も、単に、「如何にして福を得べきや」といふことのみに止まったらば、或は人間の大道を離れて邪路曲径に入るの虞が有らう。本来から言へば、事に処し物に接するに於て吾人は須らく『当不当』を思ふべきで、『福無福』の如きは論ぜずして可なる訳であるが、ここに幸福の説をなすものは、愚意[私見を謙って言う言葉]所謂落草の談[俗人の為に仏教を噛み砕いて言う話]をなして人をして道に進ましめんとするに他ならぬのである。甚しく正邪を語れば人をして狷介偏狭ならしむるの傾がある。多く禍福を談[かた]れば人をして卑小ならしむるの傾がある。言をなすも実に難い哉であるが、読む人予が意を会して言を忘れて可なりである。
幸福不幸福といふものも風の順逆と同様に、畢竟[つまり]は主観の判断によるのであるから、定体は無い。併し先づ大概は世人の幸福とし不幸とするものも定まって一致して居るのである。で、其の幸福に遇ふ人、及び幸福を得る人と然らざる人とを観察して見ると、其の間に希微の妙消息が有るやうである。第一に幸福に遇ふ人を観ると、多くは『惜福』の工夫のある人であつて、然らざる否運の人を観ると、十の八九までは、少しも惜福の工夫の無い人である。福を惜む人が必らずしも福に遇ふとは限るまいが、何様[どうも]惜福の工夫と福との間には関係の除き去る可からざるものが有るに相違ない。
惜福とは何様[どう]いふものかといふと、福を使ひ尽し取り尽して終[しま]はぬをいふのである。たとへば掌中に百金を有するとして、之を浪費に使ひ尽して半文銭も無きに至るがごときは、惜福の工夫の無いのである。正当に使用するほかには敢て使用せずして、之を妄擲浪費せざるは惜福である。吾が慈母よりして新たに贈られたる衣服ありと仮定すれば、其の美麗にして軽暖なるを悦びて、旧衣猶ほ未だ敝[やぶ]れざるに之を着用して、旧衣をば行李[衣装箱]中に押まろめたるまま、黴と垢とに汚さしめ、新衣をば早くも着崩して、折目も見えざるに至らしむるが如きは、惜福の工夫の無いのである。慈母の厚恩を感謝して新衣をば浪[みだ]りに着用せず、旧衣猶未だ敝れざる間は、旧衣を平常の服とし、新衣を冠婚喪祭の如き式張りたる日に際して用ふるが如くする時は、旧衣も旧衣として其の功を終へ、新衣も新衣として其の功を為し、他人に対しても清潔謹厳にして敬意を失はず、自己も諺に所謂『褻[け]にも晴にも』ただ一衣なる寒酸の態を免るるを得るのである。是の如くするを福を惜むといふのである。
樹の実でも花でも、十二分に実らせ、十二分に花咲かす時は、收穫も多く美観でもあるに相違無い。併しそれは福を惜まぬので、二十輪の花の蕾を、七八輪も十余輪も摘み去って終ひ、百顆の果実を未だ実らざるに先立つて数十顆を摘み去るが如きは惜福である。花実を十二分ならしむれば樹は疲れて終ふ。七八分ならしむれば花も大に実も豊に出来て、そして樹も疲れぬ故、来年も花が咲き実が成るのである。
『好運は七度人を訪ふ』といふ意の諺が有るが、如何なる人物でも周囲の事情が其の人を幸にすることに際会することは有るものである。其の時に当って出来る限り好運の調子に乗って終ふのは福を惜まぬのである。控へ目にして自ら抑制するのは惜福である。畢竟福を取り尽して終はぬが惜福であり、又使ひ尽して終はぬが惜福である。十万円の親の遺産を自己が長子たるの故を以て尽く取って終って、弟妹親戚にも分たぬのは、惜福の工夫に欠けて居るので、其の幾分をば弟妹親戚等に分ち与ふるとすれば、自己が享けて取るべき福を惜み愛[いつくし]みて、之を存留して置く意味に当る。これを惜福の工夫といふ。即ち自己の福を取り尽さぬのである。他人が自己に対して大に信用を置いて呉れて、十万円位ならば無担保無利息でも貸与して呉れようといふ時、悦んで其の十万円を借りるのに毫も不都合は無い。しかし其は惜福の工夫に於ては欠けて居るのであって、十万円の幾分を借りるとか、乃至は或担保を提供して借りるとか、正当の利子を払ふとかするのが、自己の福をば惜む意味になる。即ち自在に十万円を使用し得るといふ自己の福を使ひ尽さずに、幾分を存留して置く、それを惜福の工夫といふものである。倹約[自分への節約]や吝嗇[他人への物惜しみ・ケチ]を、惜福と解してはならぬ、すべて享受し得べきところの福佑を取り尽さず使ひ尽さずして、之を天と云はうか将来といはうか、いづれにしても冥々たり茫々たる運命に預け置き積み置くを福を惜むといふのである。
是の如きは当時の人の視て以て迂闊なり愚魯なりとすることでも有らうし、又自己を矯め飾り性情を偽はり瞞くことともするで有らうが、真に迂闊なりや愚魯なりやは、人の言語判断よりも世の実際が判断するのに任せた方が宜しい。又聖賢の如き粹美の稟賦[天性の性質]を以って生れて来ぬものは、自然に任せ天成に委ねてはならぬ。曲竹は多く※(隱の下に木)括[のだめ]を施さねばならぬ。撓め正さずして宜いのは、唯真直な竹のみである。粗木は多く※(髟の下に休)漆塗染[きゅうしつとせん]するによって用をなす。其儘で好いのは、唯緻密堅美な良材のみである。馬鹿々々しい誇大妄想を抱いて居るもので無い以上は、自己をみづから矯め、みづから治めるのを誰か是ならずとするものが有らうか。
それらの論は姑[しば]らく之を他日に譲りて擱き、兎に角上述したる如き惜福の工夫を積んでゐる人が、不思議にまた福に遇ふものであり、惜福の工夫に欠けて居る人は不思議に福に遇はぬものであることは、面白い世間の実際の現象である。試みに世の福人と呼ばるる富豪等に就て、惜福の工夫を積んで居る人が多いか、惜福の工夫を積まぬ人が多いかと糾して見れば、何人も忽にして多数の富豪が惜福を解する人であることを認めるで有らう。
(中略)
梁肉を貪り喰ひ、酒緑燈紅の間に狂呼して、千金一擲、大醉淋漓せずんば已まざるが如きは、豪快といへば豪快に似たれども、実は監獄署より放免せられたる卑漢が、渇し切ったる娑婆の風味に遇ひたるが如く、十二分に歓を※(声の右に殳でその下に缶)[つく]せば歓を※つくすだけ、其の状寧ろ憫む可く悲しむ可くして、寒酸の気こそ余り有れ、重厚のところは更に無いのである。器小にして意急なるものは、余裕有る能はざる道理であるから、福を惜むことの出来ないのは即ち器小意急の輩で、福を惜むことの出来るのは即ち器大に意寛なるものである。新に監獄を出たるものが一醉飽を欲するは人の免れぬ情であらうが、名門鉅族[豪族]の人は、美酒佳肴前に陳[つら]なるも、然のみ何とも思はざるが如くである。此の点より観れば、能く福を惜み得るに於ては其の人既に福人なのであるから、再三再四福に遇ふに至るも、怪むべきでは無いのである。試に世上を観るに、張三李四[よくある張家の三男坊とよくある李家の四男坊=平凡な一般の人]の輩、たまたま福に遇ふことは無きにあらざるも、其一遭遇するや、新に監獄を出でし者の醉飽に急なるが如く、餓狗の肉に遇へるが如く、猛火の毛を燎[や]くが如く、直に其の福を取り尽し使ひ尽さずんば已まないのである。そこで土耳古[トルコ]人の過ぎたる後には地皆赤すといふが如く、福も亦一粒の種子だに無きやうにされ了[おわ]るのであるから、急には再び福の生じ来らぬやうになるも、不思議は無いのである。
魚は数万個の卵を産するものであるが、それでさへ惜魚の工夫が無くて酷漁すれば遠からずして滅し尽すものである。まして人一代に僅に七度来るといふ好運の齎らすところの福の如きが、惜福の工夫無くして、福神を酷待虐遇するが如き人に遇つて、何ぞ滅跡亡影せざらんやである。禽は禽を愛惜する家の庭に集り、草は草を除き殘す家の庭に茂るのである。福もまた之を取り尽さず使ひ尽くさざる人の手に来るのである。世上滔々福を得んと欲するの人のみであるが、能く福を惜む者が若干人か有らう。福に遇へば皆是新出獄者の態をなす者のみである。たまたま福を取り尽さざるものあれば、之を使ひ尽すの人であり、又福を使ひ尽さざるの人であれば、之を取り尽すの人であつて、真に福を惜む者は殆ど少い。世に福者の少いのも無理の無いことである。
個人が惜福の工夫を欠いて不利を享くる理は、団体若くは国家に於ても同様で無ければならぬ。水産業は何様[どう]である。貴重海獣の漁獲のみに力めて、保護に力めなかった結果は、我が邦沿海に、臘虎[ラッコ]膃肭臍[オットセイ]の乏少を来したでは無いか。即ち惜福の工夫無きために福を竭して終ったのである。蒸気力トラウル漁獲[トロール、底引き網漁]に力めた結果、欧州、特に英国に於ては海底魚の乏少を致して、終に該トラウル船を遙に日本などに売却するを利益とするに至ったのも、即ち福を竭して不利を招いたのである。山林も同様である。山林濫伐を敢てして福を惜まなかった結果は、禿山渇水を到所[いたるところ]に造り出して、土地の気候を悪くし、天候を不調にし、一朝豪雨あるに至れば、山潰え水漲りて、不測の害を世間に貽[おく]るに至るではないか。樹を伐れば利益は有るに相違無からうが、所謂惜福の工夫を国家が積んだならば、山林も永く栄茂するで有らう。魚を獲れば利益が有るには相違無からう、が、これも国家が福を惜んだならば、水産も永く繁殖することで有らう。山林に輪伐法あり、擢伐法[抜く・伐採する]あり、水産に画地法あり、限季法あり、養殖法あり、漁法制度ありて、此等の事を遂行し、国福を惜めば、国は福国となる理なのである。
軍事も同様である。将強く兵勇なるに誇って、武を用ひる上に於て愛惜する所が無ければ、終には破敗を招くのである。軍隊の強勇なるは一大福である。併し此の福を惜む工夫が無ければ、武を黷[けが]すに至る。武田勝頼は弱将や愚将ではなかった。ただ惜福の工夫に欠けて、福を竭し禍を致したのである。長篠の一戦は、実に福を惜まざるも亦甚しいものであつて、馬場山縣を首[はじめ]とし、勇将忠士は皆其の戦に死した為、武田氏の武威は其後復[また]振はなくなったのである。将士忠勇にして武威烈々たるのは一大福であるが、之を惜まざれば、福の終に去ることは、黄金を惜まざれば、黄金の終に去ると同じ事である。那破崙[ナポレオン]は曠世の英雄である。武略天縦、実に当り難きの人であったが、矢張り惜福の工夫には乏しかったので、魯國[ロシア]への長駆に武運の福は尽き去って終った観がある。我が邦は陸海軍の精鋭をもって、宇内[天下世界]の強国を驚かして居る。併しこれとても惜福の工夫を欠いたならば、水産山林と同様の状態に陷るべきは明瞭である。雄将忠卒も数限りは有り、金穀船馬も無限に生ずるものでは無い。まして軍隊の精神は麪麭[パン]を燔[や]くやうに急造し得るものでは無い。陸海軍の精鋭は我が邦の大幸福であるが、之を愛惜するの工夫を欠いたならば寒心すべきものがある。福を使ひ尽し取り尽すといふことは忌む可きであつて、惜福の工夫は国家に取っても大切である。
何故に惜福者はまた福に遇ひ、不惜福者は漸くにして福に遇はざるに至るで有らうか。此はただ事実として吾人の世上に於て認むることで、其の真理の鍵は吾人の掌中に所有されて居らぬ。併[しか]し強ひて試に之を解して見れば、惜福者は人に愛好され信憑さるべきもので有って、不惜福者は人に憎悪され危惧さるべきものであるから、惜福者が數ゝ[しばしば]福運の来訪を受け、不惜福者が終に漸く福運の来訪を受けざるに至るも、自ら然るべき道理である。
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『土耳古人の過ぎたる後には地皆赤す』って、
おいおい、そんな事ないで!トルコ人は義理に篤い良い人よ!と、紀南の私は思います。
参考:エルトゥールル号遭難事件[ウィキペディア]/秋山真之[ウィキペディア]
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