2021年03月 | 毒親を持った子供の愚痴
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毒親を持った子供の愚痴

今更ながら自分の親が毒親だった事に勘付き始めてしまった。 一度気付いてしまうと日々ストレスが溜まる一方なので ガス抜きにブログでちびちび愚痴ろうと思いブログ始めました。 子供を育てている方は反面教師になるかもです。(※アフィリエイト広告を利用しています)

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今更ながら『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』を観終わっての感想。

2021.03.20 (Sat)
 今更ながら、アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』を観終わっての毒親育ち的感想をば。

 尚、特にネタバレとかはしていないつもりです。

 まず結末についてですが、『俺ガイル』は八幡と雪乃の物語なので特に不満は有りませんでした。

 綺麗にまとまっていてよかったのではないでしょうか。

 ただ毒親育ちとしてみた場合、雪ノ下家の毒親問題は何一つ解決していないので、この後大変だろうな、というのが率直なところでした。

 もっとも雪乃は飽く迄も陽乃(姉)のスペアでありバックアップの保険でしかないので、八幡やガハマさん等の助力を得ながら両親と上手く距離をとっていければ、それなりにやり過ごせるのかなとも思いました。

 ただしこれは逆に言うと、もし陽乃(姉)に何かあった(失踪、不慮の事故で死亡、自殺、駆け落ちetc.で居なくなった)場合は地獄が待っている事を意味しているのかな、と。

 作中で八幡は雪乃の母親に対して、得意の知略や屁理屈で立ち回れていたりしますが、これは飽く迄も雪乃母にとっては、陽乃(という親の装飾品)のスペア(保険)でしかない雪乃の重要度が低いために拘りや関心が希薄だからそう出来ているだけだと思います。

 早い話が、バックアップでしかない雪乃にそこまで執着していない雪乃母が妥協してくれているから成り立っているだけ。
(毒親によくありがちな、支配欲はあるが、どうでもいい相手(子供)に手間を掛けたくないので、こちら(毒親)に害が及ばない範囲でなら自己責任で勝手にやってくれってやつ)

 で、陽乃が居なくなった場合、この関係性は崩れ、両親にとって雪乃はスペアから本命に変わり、『妥協が許されない物』となると思います。

 そうなった場合、八幡の知略が果たしてどこまで通用するのか……。(しかも雪乃父は政治家&企業の社長なので、下手なことをすれば子供の喧嘩じゃ済まされないっていうね……)

 地獄しかみえない……。

 まあ、つってもこれは飽く迄も「if」の話なので、そこのところをお忘れなく。

 加えて、毒親育ちとしては思うところがあり色々と書いてしまいましたが、個人的には好きな作品ですので、そこもお忘れなきようお願いいたします。

 ということで、毒親育ち的に俺ガイル。完を観終わっての感想でした。




クレーマー対応地獄。

2021.03.13 (Sat)


私の毒母はクレーマーと一緒だ。

気に入らないことがあると、私(子ども)相手に先んじてブチギレて、発狂して、喚き散らして、

所謂『キレたもの勝ち』状態に持ち込んで自分の都合を押し付けようとする。

無論、ブチギレ発狂しているから、こちらの言うことなど聞きもしない。

ただ「親だから言うことを聞け」と言わんばかりに怒鳴り散らす。

それはまさにクレーマーが「お客様は神様だろ」といって喚き散らすのと一緒だ。

そして私のような毒親育ちは毒親というクレーマーに対応を迫られるクレーマー係だ。

もっとも相手が唯のクレーマーが相手なら、どうにかその場を凌いだ後に店への出禁にしてしまえば済む話だが、毒親相手ではそうはいかない。

毒親相手だと365日24時間、有無も言わさず対応を迫られる事から逃れられない。

特に幼い子どもだとそれは著明である。

只々毒親の気が済むまで謝りながら凌ぐしかない。

抗うすべはない。

だって相手は【親】だから。

想像してほしい。

モンスタークレーマーの相手を延々とさせられる事がどんなにキツく苦しいことなのかを。

それはまさに地獄である。

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今年もひな祭りがやってきた……

2021.03.03 (Wed)


 本日は3月3日、ひな祭りだ。

 今年もこの日がやってきた。

 私は毒親が近くにいる中で過ごす、ひな祭りのような年間行事が大嫌いである。

 なぜなら毒親が、こういうイベントはしっかりこなさなきゃダメだと言わんばかりに、「今日はひな祭りよ」と笑顔を向けてくるからだ。

 なぜこれが嫌かと言うと、私は子供の頃、散々毒親から「そんなもの(ひな祭り)は必要ない」と言われて育てられたからだ。

 雛人形を買っておきながら(浪費)、面倒くさいからと飾ることなく押入れの奥に放置して、眉間に皺を寄せた毒親から面倒くさそうに「必要ない」と言われて育ったからだ。

 実際、毒親の言葉の通りにひな祭りなるイベントは、まともに行われることなく、私の子供時代の月日は過ぎ去っていった。

 そんな散々ひな祭りを否定してきた毒親から浴びせられる件の台詞は、私の子供時代の否定に他ならない。

 それは当時必至に「そういうものだ」と自分に言い聞かせて我慢し続けた努力を踏みにじる行為に他ならない。

 それを元凶である毒親に笑顔でされるのは大いに腹立たしいことである。

 どうせ毒親は「自分は真っ当である」とまとも人間アピールをするためにそうしているだけであり、今更そんなことは言われなくとも知りまくっている私なので、ことさら憎しみは増すばかりである。

 だから私はこの手のイベントが嫌いなのだ。

 過去の鬼畜行為がなかったかのように善人面した毒親から、汚れた手で綺麗な言葉を投げつけられるから。

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毒親は子どもが溺れたら川に飛び込むのか?

2021.03.01 (Mon)


 自分の親が毒親であると認識して暫く経つ。

 毒親というものの情報を集め、発信して暫く経つ。

 そんな私が時間の経過とともに思い知らされること。

 それは、毒親というものが世間にいまいち正しく認識されていないのではないか、ということである。

 何というか、毒親に関する認識が、私のような毒親育ちとそうでない方々との間で、次元が一段階、二段階、或いは三段階程ずれているのではないか、と思うことが多々あるのだ。

 例えば、川で我が子が溺れたとする。

 その時の親の取る行動で、親と毒親の選別をするとした時、世間一般の普通の方々はこう思っているのではないだろうか。

 【親自身の命】と【溺れた我が子の命】を天秤にかけて、自分の命よりも子どもの命を優先させて川に飛び込み助けようとするのが『親』、子どもの命よりも自分の命を優先して川に飛び込めずにいるのが『毒親』である、みたいな。

 でもね、毒親育ちの私としての認識はそうではないんですよね。(※飽く迄も私見です。)

 私に言わせると、先に延べた両者はどちらも親なんですよ。

 じゃあ毒親はどういったものを指すのか、なんですが―――

 あのですね、飽く迄も私個人の感覚ですがね、毒親というのは川で子どもが溺れている状況において、そもそも【自身の命】と【溺れた我が子の命】を天秤にかけてなんていないんですよ。

 毒親がこの状況において天秤にかけるのは【自身の命】と【自身の体裁(世間体や評判など)】なんです。

 【子どもの命】なんか端からかけていないんですよ。アウトオブ眼中ってやつ。

 毒親というのは、【自分の命】と【川で溺れた子どもを助けようとしない場合に世間から後ろ指刺され自身の築いた地位揺らぐリスク】を気にしているだけなんですよ。

 我が子が命の危機に瀕していても、自分の都合しか考えていない。

 私の感覚だと、それが『毒親』なんです。

 で、なんで私がそう思うかと言うと、うちの毒親は私が川で溺れていた場合、川には入るから。(これは飽く迄も比喩表現です)

 ただし、助けてはくれない。

 例えば、川に入ったとしても流れの緩い浅瀬で大げさに身体を濡らすと、すぐに岸に上がってしまうのだ。

 そして毒親は悲壮感漂う顔で自信満々にこう言うんですよ。

「助けようと思ったけど、助けられなかった」と。

 理由はその都度、様々である。

 流れが急で無理だった、泳ぎが苦手な自分ではあれで精一杯だった、等。

 要するに保身のために助けられなくても(助けなくても)世間から後ろ指さされない状況を作るために川に入っているだけ。

 これが私の毒親なのです。

 そしてこうした自分の都合しか考えていない毒親は、当然ながら川に飛び込んだとしても子どもを助けてはくれないんです。

 だって毒親が川に飛び込む理由は保身の(自身の世間体を守る)ためで、子どもを助けるためではないのだから。

 毒親的に、保身のための言い訳作りが出来た時点で目的は達成されるので、それ以上の事(子どもを助ける)をする必要も意味もないから。

 毒親的に、毒親自身の命を危険に晒してしまったら【保身】という意味において本末転倒になるから。

 こういう親(毒親)の事どう思いますか? 酷いと思いませんか? 

 でもね、こんな毒親を見て周囲にいる多くの人が実際に彼らにかける言葉が何かというと、

『それは災難だったね。あなた(毒親)は最善を尽くしたんだから自分を責めてはダメよ』とかだったりしますからね。

 他人は基本的に毒親の表層の行動しか見ていないので、その心理がどんなものかなんて気にしていないんですよ。

 みんな川でずぶ濡れになった毒親を見て、『子供のため』に川に飛び込んだ素晴らしい親としか思わないし、軽蔑するどころか寧ろ称賛するんですよ。

 例えそれが浅瀬で身体を濡らしただけであったとしてもね。

 毒親の思惑通りってやつです。

 これで世間では優秀な親(毒親)の完成なわけですよ。

 そして、こうして名声を得た毒親というのは、命からがら自力で川から這い上がり難を脱して戻ってきた子供に言うんです。

「お前(子供)のせいで死にかけたじゃねえか💢 人に迷惑かけてんじゃねえよ💢 二度と勝手に川に近づくんじゃねえぞ💢 心配かけやがってふざけるな💢」ってね。

 毒親自身は監督責任の不備や子どもを見捨てた事に対し罪悪感を懐くどころか、寧ろ子どもの方に責任を負わせ、罪悪感を懐かせようとしてくるですよ。

 こうした毒親に比べたら、先に延べた【子どもの命よりも自分の命を優先して川に飛び込めなかった親】でも、『助けたいのに恐怖で足が竦み助けられず、その事に罪悪感を懐き(パフォーマンスではなく本当の意味で)後悔している』としたら、例え子どもを助けられなかったとしてもその人間は『親』であると私は思うんですよね。

 でもこの感覚って、真っ当な親に育てられた方にはいまいち理解してもらえないんですよね。

 彼ら真っ当な親に育てられた方には、かの状況下において【溺れた子どもが眼中にない親(毒親)】がいるという常識はないから。

 彼らの親は当たり前のように【溺れた子どもの命】を天秤にかけてくれて、それが常識だと思っており、【溺れた子どもが眼中にない親(毒親)】は非常識でありえないと思っているから。


 で、要するにこの辺の毒親育ちと一般人の間にある常識のズレが、そのまま認識のズレになっていて、なかなか毒親育ちの訴えの意図が伝わらないってのを、昨今は痛感せずにはいられないと言うわけです。

悲しみ(´;ω;`)




 P.S. 
 因みに【川で溺れた結果、毒親に見捨てられて自力で岸に這い上がった後、毒親から件のような怒号を浴びせられた子供】がどうなるのかというと、何も出来なくなります。

 唯でさえ溺れた恐怖を抱えているというのに、そこに毒親の叱りつけるという恐怖と迷惑をかけたという罪悪感を加えられて、行動を制限されるから。

 更にいうと、毒親はこれ幸いと大義名分でも得たかのように「危ないから」「(また溺れたりしたら)世間(や親)に迷惑をかけるから」などと口にして、子どもを川に連れて行く(遊びに連れて行く)という【子どもとのコミュニケーションを取る機会】を拒絶出来るようになるから。

 抑制地獄まったなしです。


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