2019年03月 | 毒親を持った子供の愚痴
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毒親を持った子供の愚痴

今更ながら自分の親が毒親だった事に勘付き始めてしまった。 一度気付いてしまうと日々ストレスが溜まる一方なので ガス抜きにブログでちびちび愚痴ろうと思いブログ始めました。 子供を育てている方は反面教師になるかもです。(※アフィリエイト広告を利用しています)

指定期間 の記事一覧

「親と話し合えば分かり合える」という人は毒親を理解できていない。

2019.03.29 (Fri)


 「親と話し合えば分かり合えるはず」

 毒親育ちにそんな事を言う人がいる。

 おそらくそう言うことを言う人は毒親のことも毒親育ちのことも理解できていないのだと思う。

 まず「親と話し合えば分かり合えるはず」とかいう人は、毒親育ちが親との対話を怠っているから関係が崩れていると考えていると思う。

 だがそれは間違いだ。

 毒親育ちは親との対話をずっと試みてきた子どもだからだ。

 正直、普通の子どもよりの親との対話を試みているとさえ思っている。

 なぜなら対話を試みるたびに毒親は一方的に子どもを否定してくるのに、毒親育ちはそれでもどうにか親を理解しようと奔走してきているのだから。

 普通の親なら理解を得られる事も、毒親は理解を示さないが、それでも毒親育ちは親の理解を得ようと手を変え品を変え何度も何度もトライしてきているのだ。

 毎度、毒親の顔色を必死で伺いコンタクトを試みているのだ。

 これが対話を試みる事以外の何と言えようか。

 何がいいたいかと言うと、

 子どもが「自分の親が毒親であると気づく」ということは、対話を試みまくった結果、親が対話不可能な相手であると気づくということなのだ。

 だから、毒親育ちが親と対話をしていないということは決してないのだ。

 寧ろしようとしまくった結果なのだ。

 それなのに――――

 「親と話し合えば分かり合えるはず」と言われてしまうあたり、この辺の事は中々普通の人には理解してもらえない。

 なぜなら普通の人にとっての親とは当たり前のように「対話が可能な相手」だからだ。

 子どもの声に耳を傾けてくれる相手なのだ。

 だから親が対話不能な相手なんて想像もできないのだ。

 だから話し合えば分かり合えると思うのだ。

 でも毒親とはそう言うものではない。

 毒親とは普通の親ではないのだ。

 というか、そもそも親という言葉を使う事さえ烏滸がましい生き物なのだ。

 常に毒親の都合が最優先で、子どもの声など気にもとめないどころか、無理やり黙らせる事さえ辞さない生き物。

 一般的な親の常識が通用しない親とは別の生き物なのだ。

 だからどんなに子どもとして対話を試みようとしても、それが叶わない。

 親という存在ではないのだから。

 毒親とは親とは別の存在で、故に親の常識が通用しない相手。

 だから少なくとも親子として分かり合うことは不可能で、そこに気づいたから毒親育ちは毒親との対話を諦めたのだ。

 だから毒親育ちは断じて親との対話を怠ったわけではなく、

 毒親というものが「話し合えば分かり合える」相手ではないということなのだ。

 そこをわかってほしいと思う。


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幼い子どもには毒親ですら偉大に見えてしまう。

2019.03.09 (Sat)


 毒親被害を最小限に抑える方法……

 それは子どもがなるべく早い段階で自分の親が毒親であると認識する事だと思っている。

 如何に早く毒親を認識して、その悪影響から身を護る事にかかっていると思っている。

 だが、それは現実的には難しい……

 

 毒親のいうのはくだらない人間だ。

 とてもじゃないが尊敬に値するような人間ではない。

 そんな事は明白だ。

 だがしかし、それでも幼い子どもにとっては偉大なのだ。

 否、偉大に見えてしまうのだ。

 なぜなら幼い子どもというのは無知だから。

 無知な子どもには、些末な事でも偉大に見えてしまうのだ。

 炊飯器で米を炊く事も、全自動洗濯機を使って指一本で洗濯を済ませる事も、幼い子どもには一様にすげぇと思ってしまう。

 それが誰でも出来る簡単な事であると無知な幼い子どもは知らないから。

 そして毒親は幼い子どもが無知なのをいい事に、誰でも出来る些末な事を自分(親)にしか出来ない特別な事のように装い、威厳を得ようとする。

 くだらない事である。

 寧ろ威厳を失う行為である。

 それでも幼い子どもはそれがくだらなくて威厳を失う行為であるとは思わずに、偉大だと思ってしまう。

 なぜなら幼い子どもは無知だから。

 だから無知な子どもが早い段階で毒親を認識するのは難しいのだ。

 不可能に近いと言っても過言ではないほどなのだ。



 そうして自分の親を毒親と認識できず、毒親のくだらない威厳を真に受けて、くだらない毒親のくだらない言葉を信じて邁進した子どもは、ある日それが世間では糞の役にも立たないものと知り、自らを貶める誤った行為だったと知り、自分の親が毒親であると知り、そして絶望する事となる。

 その時には大抵、時既に遅しというやつだからだ。

 子どもが子どものうちに自力で毒親の被害から逃れるのは難しい。

 だから親の責任は重いのだ。


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「過去を言い訳にするのダセェ」っていうのを見て思ったこと。

2019.03.02 (Sat)


 先日、とある記事を読んだ。

 そこには「過去を言い訳にするのダセェ」なる事が書かれていた。

 それに対して私なりに思うことがあったのでここに記そうと思った。

 以下が私が「過去を言い訳にするのダセェ」について思うことである。

「過去を言い訳にするのダセェ」

 それはそれを言った「そいつ自身の過去」に向けたものであれば大いに構わないと思う。

 自分の過去を自分がどう思おうと自由なのだから。

 それで本人の活力となるのならば推奨したっていいだろう。(飽く迄も自分に対して)

 だがそれが「他者の過去」に向けられたとしたら蛮行以外の何物でもなくなると思う。

 凶器でしかないと思う。

 なぜなら「他者の過去」をダセェと扱き下ろすということは、「他者の過去」を否定することであり、それはそいつが他者に与えた過去(影響)に対しての責任を放棄する事に繋がるからだ。

 いじめっ子がいじめられっ子に「もう済んだことなんだから、これからは仲良くしようぜ」と言う。

 詐欺師が被害者に対して「騙された貴方が悪いから水に流せ」と言う。

 殺人犯が遺族に「いつまでも死んだ人間の事に囚われてるんじゃねえ」と言う。

 どれも他者の過去を否定している。

 そして自分が他者に与えた過去(影響)を顧みない発言だ。

「過去を言い訳にするのダセェ」を「他者の過去」に向けそれを否定するということは、これらの発言を容認する事に他ならない。

 誰かが誰かに与えた過去(影響)の否定を容認する事で、自分が誰かに与えた過去(影響)を否定する。

 それは自分が誰かに与えた過去(影響)がもたらす結果に対して自分の関与を否定するということであり、それは即ちその結果に対して責任を放棄するということになるはずだ。

 つまりは開き直りなのだ。

 責任の放棄、開き直りを声高らかに宣言し、他者を蔑み否定する「他者の過去」に向けられた「過去を言い訳にするのダセェ」という言葉。

 こんな身勝手な振る舞いが蛮行でなくて何であろう。

 この一方的に相手を切りつける行為が凶器でなくて何であろう。

「過去を言い訳にするのダセェ」という言葉は内に向けるか外に向けるかで中身が変わる。

 そこを見誤ってはいけないと、私は件の記事を読んで思ったのである。


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