2017年04月 | 毒親を持った子供の愚痴
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毒親を持った子供の愚痴

今更ながら自分の親が毒親だった事に勘付き始めてしまった。 一度気付いてしまうと日々ストレスが溜まる一方なので ガス抜きにブログでちびちび愚痴ろうと思いブログ始めました。 子供を育てている方は反面教師になるかもです。(※アフィリエイト広告を利用しています)

指定期間 の記事一覧

私は母親に本音を明かさない。

2017.04.30 (Sun)


私の母親は私の言動に対し、

必ずはじめに侮蔑や嘲笑をを示す。

まず見下したように鼻で笑うのだ。

毎度のようにこれをやられると、

母親のその後の言動に関係なく、

嫌気がさすというものだ。

母親には腹の底で常に否定されていると思うと、

まともに話す気も失せる。

自然と私は母親に本音を話さなくなった。

当然である。

小馬鹿にされると知っいて心の中なんか話せるわけがない。

本気の思いを伝えられる訳がない。

それが母親との関係が希薄な原因の一つである。


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親の都合が最優先。

2017.04.30 (Sun)


私の親は常に自分の都合を私に対して押し付けてくる。

「私の気持ち」「私の都合」

親はそんなもの気にも留めていない。

というよりも、

その私の「私の気持ち」「私の都合」すら親の都合として押し付けてくる。

親が勝手に「私(子供)はこう思っているに違いない」と決めつけ、

それありきで接してくるのだ。

私の考えを、気持ちを窺おうとは決してしない。

「親なんだからあんた(私)の考えは解っているんだからね」

そんな身勝手な考えで接してくる。

知ったようなこと言わないで欲しい。

私の考えを、気持ちを窺おうとした事がないのに、

私の考えも気持ちも解るわけねえだろ。

とは言え、私は親に何も言い返さない。

言い返したところで無駄だからだ。

親の都合にそぐわぬ「私の気持ち」や「私の都合」は私に非があるからだと、

親の都合を押し付けられるだけだからである。

―――そして、私は親との会話を極力避けるようになった。


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続・親にとって私とは……

2017.04.27 (Thu)


昔から事ある毎に、

「お前は長男だから」

「家を継ぐのはお前だから」

と言われ、

家族内の年中行事で面倒事を押し付けられた。

反面、以前も綴った事だが

姉は何れ嫁いでいなくなるからと、

何かと可愛がられるのに対して、

家を継ぐ私は後でいつでも可愛がれるからという理由で、

何もしてもらえなかった。

(尚、今も可愛がられているのは相変わらず姉の方である)

子供の頃、私はそれを所謂長男の宿命と思い受け入れていた。

そればかりか、後継ぎとして厳しくもしっかりと育てられているとさえ思っていた。

だが、それは違っていた。

家を継ぐことを誇張するのに、施しは与えない。

それはなぜかと考え、私は気がついたのだ。

つまり私は『跡取り人形』でしかないという事に。

家さえ継いでくれればそれでいいのだ。

だからそれしか教えない。

それ以外に時間を割かないのだ。

姉(女)と私(男)の生まれた順番もそれを物語っている。

子供を欲して姉が生まれ、

女は家を継げないという旧世代的考えから、

家督を収める器を欲して私を作った。

だから親は子供の姉を可愛がり、器でしかない私には使命を強いたのだ。

そして、私は辿り着いた。

近年、懐いていた疑問の答えに。

親にとって私とは何なのか? の答えに。

親にとって私は【家を継がせる人形】だったのだ。

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親にとって私とは……

2017.04.24 (Mon)


私の親は、

自分が気の進まない事は何か理由(言い訳)をつけてやらないようにする。

そしてそこには子供の私と時間も含まれていた。

だから家族旅行も行かないし、

誕生日も片手間で済ましていた。

そのくせ、

私には「文句言わずにさっさとやれ」と平気で言い、

母の日だから、父の日だから、と自身に対しては祝福を強要した。

親にとって私とは何なのか?

私と過ごす時間は不要なのか?

そんなに面倒くさがり手を抜きたがるなら、なんで私を産んだのか?

そんな疑問を懐くようになったのは、

一体いつからだっただろうか?


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子供が親から期待されない、とは。

2017.04.21 (Fri)


私は親から期待されずに育った。

親から期待されないという事は、

私の事(才能、将来性)が信用されていないという事に他ならない。

そして信用されていない子供と言うものは親から正当な評価が得られない。

物事の評価は信用の上で成り立っている部分が多い。

それ(前提)がはじめから無いのだから当然である。

正当な評価が得られない子供は無気力になる。

人は基本的に、正当な評価の得られない事を続けることが出来ない生き物だからである。


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親が子供にしたことは何れ子供から親に返される。

2017.04.20 (Thu)


私の父親は子供の私と極力言葉を交わそうとしなかった。

大人になった私は父親と会話を避けるようになった。

身近にいながら子供の時でさえ話すことのなかった人間と大人になって話そうと思えるわけがない。

私の母親は感情的に自分(母親)の要求を子供の私に押し付けていた。

大人になった私は感情的に私の要求を母親にぶつけるようになった。

感情的に振る舞う人間とは話し合いが成り立たないことを知っている(身をもって教えられた)からだ。

親が子供に施したことは、その良し悪しに関わらず、何れ子供から親に返ってくるものだと思う。

親はその事を肝に銘じて子育てをするべきではないだろうか。

子供をぞんざいに扱っておきながら、子供から丁寧に扱われる事を望むなんてのは親の傲りでしかないのである。

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子供が親の異常を認めることは難しい。

2017.04.19 (Wed)



このブログの紹介文にもあるように、

私は最近、自分の親が毒親であることに気付いたとなっていますが、

実のところ、

子供の頃に全くそれに気付いていなかったかといったら、

そうでもなかったりします。

今にして思えば、

薄々勘付いていたよな、って思う節が多々あります。

ただそれは飽く迄も、

今になって振り返ってみての話です。

当時の私はやはり気付いていなかったと言えます。

では何故、勘付きながらも気付けなかったのか?

それは偏に、

子供というものは自分の親が異常であることを認められない生き物だからです。

誰だって自分の親がまともじゃないなんて現実を受け入れるのは困難なこと。

まして狭い世界しか知らない子供は尚の事それが出来ません。

なぜなら自立していな子供の世界というのは親によって回されているから。

子供にとって親の異常を認めるという事は、

自分の世界を否定する事、

自分を否定する事に繋がるのから。

そんな絶望的なこと親以外にすがるもののない子供に出来るはずがないのです。

そして結果、気付いた時には手遅れになる。

子供にはどうしようもない毒親被害。

なればこそ、親は常にその危険性と向き合わなければならないと思う。


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私は親の手伝いが嫌いだ。

2017.04.17 (Mon)


私は昔から親の手伝いをするのが嫌いである。

なぜなら私の親は褒めるということを殆どしない。

(手伝いの内容によるが)事前にしっかりとやり方等をレクチャーしない。

文句、ダメ出しはしっかりする。いや、寧ろ必ずする。

要するに私の親は

やらせるだけやらせて文句を垂れるスタイルで子供に手伝いをさせるのだ。

つまり、

手伝っては貶され、

手伝わなかったら怒られる。

私にとって手伝いとは、

やろうがやるまいが貶されるもの。

所謂、ふられた時点で詰んでいる、ものである。

だったら、やるだけ無駄であろう。

自分の時間を割いて、苦労して奉仕した挙句、貶される。

どうせ嫌な思いをするなら、

苦労がないぶん手伝いをせずに小言を言われた方がマシなのだから。

だが、それでも結局、嫌な思いをすることには変わらない。

だから、私はディスられる事が確定している親の手伝いそのものが嫌いなのである。


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子供の教育とは未来のその子への投資である。

2017.04.15 (Sat)



子供の価値観で正しいと思っていたことが、

大人になってみると誤りであったと気付くことがある。

もしもそれに子供の頃気付いていれば、

そう考え、後悔に浸ることがある。

毒親に育てられた私はその思いが特に強い。

親に怒られたことが些細な事でしかなく、

親に怒られなかった事が重大だった。

親の都合で怒られ、

子供の行く末は蔑ろにされていた。

そんな私が思うに、

教育とは子供の未来を見据えて施されるべきものだと思う。

よく躾の問題で、

「愛情があれば時に手をあげる事も必要だ」という意見に対し、

「子供が嫌がっているならそれは暴力で躾ではない」と訴える人間がいる。

私はそういった意見を目にする度に思う。

その嫌がっている子供の価値観というのは、果たして未来永劫普遍のものなのか? と。

もしその子供が大人になった時、そこで殴られて教えられた事を有難く思うのだとしたら、

例えその場で子供に嫌がられようとも、やらねばならない時があるのではなかろうか。

もしその子供が大人になった時、そこで甘やかされ教わらずに済まされた事を疎ましく思うのだとしたら、

例えその場で子供の反感を買うことになろうとも、止めなばならない事があるのではなかろうか。

一応断っておくが、別に私は暴力を推奨しているわけではない。

寧ろ暴力は嫌いだ。

訴えたいのは、

【子供が「子供の時」にどう思うかではなく、成長して「大人になった時」にどう思うか】をもっと重要視すべきではなかろうか、という事だ。

子供の教育とは未来のその子への投資なのだから。


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苦労が報われないことを教え込まれた子供時代。

2017.04.12 (Wed)




「習い事」や「学校のテスト」などで好成績を収め、

ご褒美に何か買ってもらう。

そんな経験をした事がある人は多々いると思います。

私も何度かそういった形で親におねだりをした記憶があります。

というのも、

以前 書いた事ですが私の親は誕生日だのクリスマスだのを適当に済ませ、

更にはプレゼントの類などは何かと理由を付けて私に与えてくれないような人なので、

こうしたGive and Take方式でねだらないと何も得られなかったんです。

(まあ、それでもかなり頼み込まないとダメでしたが)

で、何とか課題をクリアして欲しいものを勝ってもらうことに成功するわけですが。(一応、約束は守る。一応は。)

まあ、ここまでなら「欲しいものは努力して手に入れろ」を身をもって体験させる教育方針として、

評価出来るのかもしれません。

ですが、私の親はここで非道な綺麗事を言うのです。

「みんなで【仲良く】使いましょう」と。

意味わかります?

要するに、苦労したのは私なのに優先権は私にないのです。

親や姉が普通に使うのです。

しかも私は年齢的に一番下っ端という事もあり、

気付いたら使う時に親や姉に使ってもいいか伺いをたてるなんて事になってました。

というか最終的には彼らのものになってましたし、それが当然のように振る舞ってました。

つまり私が何を言いたいのかというと、

「私は親から【努力や苦労は報われない】という事を身をもって教えられた」という事です。

結果、私は物事に対し頑張ろうと思うことがなくなりました。

努力しても報われませんし、苦労した分だけむしろ損ですからね。

無論、親の事も信用出来なくなりました。

まあ、親の信用云々はもうどうでもいいですが、

頑張ることに意味を見いだせない人間に育てられた事に対しては本当に憎たらしく思います。

何をするにも、それは足かせとして私を苦しめますからね。


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