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2037-12-31
ようこそ「鉄道全線完全制覇の旅」へ!
ようこそ「鉄道全線完全制覇の旅」へ。このブログでは、1970年代から1980年代、そして2007年以降の鉄道旅を中心に紹介しています。1980年から1990年に開催されたキャンペーン「いい旅チャレンジ20000km」を原点に、2007年以降は「いい旅チャレンジ~」で制覇できなかった路線の制覇に挑戦。2013年には国鉄時代の乗車を含めたJR線全線制覇を、また沖縄のゆいレールを除く全鉄道路線達成いたしました。
(トロリーバス、鋼索線(ケーブルカー)は基本的にカウント対象外としています。)
以降、新線開業などにより現在は富山地方鉄道市内線の一部や仙台市交通局の東西線、沖縄のゆいレールや北陸新幹線の長野~金沢間が未制覇となり、鉄道路線全線乗りつぶしは現在も進行中です。
また、近年では地元・神奈川の相鉄線のJR乗り入れも完成し、更に新横浜までの延伸も開業となり、ますます「永遠のテーマ」となる事でしょう。
制覇記録を最新の情報に更新しました(2024年10月6日現在)。
過去の乗車記録(旅行程)はこちらから。
そして、特に近年流行りのキャンプを匠に紹介する素敵な先輩で、YAZAWAをこよなく愛する古川屋台・ソウヅさんのブログ「酒と野宿と…yazawaとカブと…」はこちらより。
バリバリの「E.YAZAWAチック」な店内は、ファンでない方でも気さくな「あるじ」が必ずや快く迎えてくれる事でしょう。
☆当ブログに掲載されている画像について、管理人撮影のものに関しての著作権は全て管理人にあります。ご使用になりたい場合はご自由に使用されてかまいませんが、引用元を記されていただくと幸いです。
私の写真以外つきましては引用元を全て記載しておりますので、そちらの管理人様との交渉となりますのでご注意ください。
「ダイナミック✡トナカイ」の写真引用につきましては、私にご連絡いただいた上、本人に確認を取りましてからのご返答となりますのでよろしくお願いいたします。
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<リバイバル> 1983年・春爛漫 <青春18> ③
2024-11-02
39分の時を経て、ようやく小郡(現・新山口)より普通列車に揺られ下関に到着。電車のため機関車交換等なく、ブルートレイン世代の私には何か物足りないようなイメージであったが、私にとって下関は聖地であり特別な存在である格式高い駅を普通列車で途中駅のようにスルーするのが申し訳ないような感じがした。
そんな下関を過ぎ関門トンネルを抜けるといよいよ九州入りを果たすが、デッドセクションを気にしながら更に九州側の聖地である「門司」に着いたのは22時01分。夜10時の到着だ。門司港発の「ながさき」に乗るため一旦門司港行きへと乗り換えるが、普通列車での門司港入りは何となくアバンチュールな気持ちになる。
門司港に着いたのは22時16分なのでインターバルは30分を切った約25分。果たして「ながさき」の座席取り待ち客は既に長い行列をつくっているのであろうか…と心配したが、特に行列を作っていたわけでもなく、大垣夜行のイメージとは異なり、普通に座席を選べるくらいの乗車率であった。
2013年訪問時の門司港。かつては九州の玄関口として栄えたが、現在はその当時の面影が売り物となっている。1983年に訪れた時もほぼ同じ佇まいであったのが感慨深い。
だが、この待ち時間はほとんど足りないイメージであり、座席確保は確定したので尚更門司港と戯れていたかった。例えば、別のホームには夜行急行「かいもん」やボンネット仕様の特急「有明」、更には夜行急行の「日南」など、いつかは乗ってみたいと思う列車が門司港のホームを埋め尽くしていた。もちろん「収め」に取り掛かるが、写真だけでは物足りない。・・・
「ながさき」の待ち時間に門司港で撮影した特急「有明」。門司港に有明が姿を現すのはある意味時間帯が限られているので珍しい部類であるかも知れないが、そういった意味ではグッドタイミングであったかも知れない。隣には分かり辛いが、夜行急行「かいもん」が出発を待っていた。
それこそ夜行急行「日南」にその場で乗りたくなったが、きっぷがそれを許さない。しかし「日南って、宮崎辺りから普通列車になるよな…」と頭の中をよぎる。だが私たちは予定通り「ながさき」に乗り込まなければならなかったのは非常に残念であった。というより、私がどこかの油田会社か財閥辺りの令息であったなら、恐らくフリー切符を門司港の切符売場で購入し「日南」や「かいもん」等に切り替える経済的余裕もあったであろう。たが、残念ながら私は一般庶民の令息であるため、その切り替えを許されずにいた。
さて「ながさき」は、普通列車でありながら愛称が付いているのは寝台車を連結しているからである。しかも10系寝台車だ!しかし私たちは当然ながら寝台車ではない普通座席である。あくまで「18」のルールを重んじなければならないが、更に寝台を利用する場合、寝台料金の他に運賃を別途運賃を払わなければならい。つまり、寝台を利用するためには別料金が発生するため、どうしても令息でなければならないのだ。当時中学生だった私には、とてもそんな勇気はなく、ただひたすら「18」のルールを忠実に守らなければならなかったのだ。
同じく門司港発の夜行急行列車「日南」。日豊本線経由で西鹿児島(当時)を目指すが宮崎~西鹿児島間はなんと普通列車に変身してしまう!確か20系客車での運用であったのでこれは完全に儲け物であろう。
定刻に門司港を出発した「ながさき」は途中、博多まで眉毛の無い「へんなおじさん」に絡まれていささか嫌な思いをしたが、それ以降は「寝る体勢」に入る。「ながさき」は文字通り長崎行であるが、途中早岐で佐世保行を切り離す。「途中早岐で切り離す・・・」この「早岐で切り離す」がポイントであり、この「ながさき」は先述通り大村線経由で長崎に向かう事になる。つまり、伝統ある旧・長崎本線のルートをそのまま再現している事になるのだ!これは大変貴重であり、古式ゆかしき列車である!だが私達は長崎まで向かわず、なんと途中の肥前山口(現・江北)でこの伝統的な列車を捨ててしまう予定だ。なんとも失礼な行動であるが「肥前山口」で降りる?なぜ・・・レールファンなら既にお気付きと思われるが、果してその真相は・・・
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そんな下関を過ぎ関門トンネルを抜けるといよいよ九州入りを果たすが、デッドセクションを気にしながら更に九州側の聖地である「門司」に着いたのは22時01分。夜10時の到着だ。門司港発の「ながさき」に乗るため一旦門司港行きへと乗り換えるが、普通列車での門司港入りは何となくアバンチュールな気持ちになる。
門司港に着いたのは22時16分なのでインターバルは30分を切った約25分。果たして「ながさき」の座席取り待ち客は既に長い行列をつくっているのであろうか…と心配したが、特に行列を作っていたわけでもなく、大垣夜行のイメージとは異なり、普通に座席を選べるくらいの乗車率であった。
2013年訪問時の門司港。かつては九州の玄関口として栄えたが、現在はその当時の面影が売り物となっている。1983年に訪れた時もほぼ同じ佇まいであったのが感慨深い。
だが、この待ち時間はほとんど足りないイメージであり、座席確保は確定したので尚更門司港と戯れていたかった。例えば、別のホームには夜行急行「かいもん」やボンネット仕様の特急「有明」、更には夜行急行の「日南」など、いつかは乗ってみたいと思う列車が門司港のホームを埋め尽くしていた。もちろん「収め」に取り掛かるが、写真だけでは物足りない。・・・
「ながさき」の待ち時間に門司港で撮影した特急「有明」。門司港に有明が姿を現すのはある意味時間帯が限られているので珍しい部類であるかも知れないが、そういった意味ではグッドタイミングであったかも知れない。隣には分かり辛いが、夜行急行「かいもん」が出発を待っていた。
それこそ夜行急行「日南」にその場で乗りたくなったが、きっぷがそれを許さない。しかし「日南って、宮崎辺りから普通列車になるよな…」と頭の中をよぎる。だが私たちは予定通り「ながさき」に乗り込まなければならなかったのは非常に残念であった。というより、私がどこかの油田会社か財閥辺りの令息であったなら、恐らくフリー切符を門司港の切符売場で購入し「日南」や「かいもん」等に切り替える経済的余裕もあったであろう。たが、残念ながら私は一般庶民の令息であるため、その切り替えを許されずにいた。
さて「ながさき」は、普通列車でありながら愛称が付いているのは寝台車を連結しているからである。しかも10系寝台車だ!しかし私たちは当然ながら寝台車ではない普通座席である。あくまで「18」のルールを重んじなければならないが、更に寝台を利用する場合、寝台料金の他に運賃を別途運賃を払わなければならい。つまり、寝台を利用するためには別料金が発生するため、どうしても令息でなければならないのだ。当時中学生だった私には、とてもそんな勇気はなく、ただひたすら「18」のルールを忠実に守らなければならなかったのだ。
同じく門司港発の夜行急行列車「日南」。日豊本線経由で西鹿児島(当時)を目指すが宮崎~西鹿児島間はなんと普通列車に変身してしまう!確か20系客車での運用であったのでこれは完全に儲け物であろう。
定刻に門司港を出発した「ながさき」は途中、博多まで眉毛の無い「へんなおじさん」に絡まれていささか嫌な思いをしたが、それ以降は「寝る体勢」に入る。「ながさき」は文字通り長崎行であるが、途中早岐で佐世保行を切り離す。「途中早岐で切り離す・・・」この「早岐で切り離す」がポイントであり、この「ながさき」は先述通り大村線経由で長崎に向かう事になる。つまり、伝統ある旧・長崎本線のルートをそのまま再現している事になるのだ!これは大変貴重であり、古式ゆかしき列車である!だが私達は長崎まで向かわず、なんと途中の肥前山口(現・江北)でこの伝統的な列車を捨ててしまう予定だ。なんとも失礼な行動であるが「肥前山口」で降りる?なぜ・・・レールファンなら既にお気付きと思われるが、果してその真相は・・・
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<リバイバル> 1983年・春爛漫 <青春18> ②
2024-10-26
やがて名古屋を過ぎ終点大垣に着くと、恒例の「大垣ダッシュ」を初めて経験する事になる。レールファンならご存じの光景であるが、レールファン以外の方のためにタイムボカン風に説明しよう。大垣より先、米原方面へ乗り換えるため、次の列車目指し座席確保に皆命を懸ける。だが次に乗り換える列車の米原行き乗り場が同一ホームではないため跨線橋を大勢の乗り換え客がダッシュするという光景がみられるのだ。それが大垣夜行よりムーンライトながらに引き継がれた「行事」となっていたが、その「ムーンライト」もついに消え去ってしまった。せっかく島式ホームが沢山あるのになぜ大垣での乗りはが同一ホームではないのだろうか。JRがわざわざ意図的に同一ホームにしないのだろうか。これはある意味「いじめ」ではないのか!やはり同一ホームで乗り換えは必須事項であろう。
画像はウィキより拝借した大垣夜行。JRになってからはご覧のような「ムーンライトながら」として全席指定となり、国鉄時代の特急車両が充てられるようになった。レギュラーはJR東海の車両であったが、現在は定期便がなくなり、国鉄時代にデビューした185系が充てられ、臨時列車ながら近年まで生き残っていた。
過去に私はこの件についとJR東海にご意見したことがある。島式ホームがあるのだから同一ホームでの乗り換えがなぜできないのかと。大垣はともかく、静岡や浜松など明らかに東海道線以外の乗り換えが無いはずなのに、わざわざ跨線橋を使わせての乗り換えは、利用者にとってかなり不利なのではないかと。返ってきた答えは「乗り換え時間を充分に取っているのでご理解下さい」であった。とても残念な答えであった。
1978年に撮影した防府駅。寝台特急「富士」に乗車時に撮影したが、当時、東京発の寝台特急で「富士」は西日本ではなかなか渋い駅に停車した。今回は普通列車での通り道となったが、やはり「富士」が停車していた駅には何となく特別な思いを感じずにいられなかった。
そもそも多くの人はこの「乗り換え」「所要時間」を凄く気にするであろう。もちろん料金も気になるところではあるが、基本的には確保した座席は離れたくないし目的地まで早く到着したいものだ。それを、乗り換えが発生する上に跨線橋で歩かされ、なおかつ、座席の確保が不安な上所要時間がプラスせれる。これほどデメリットな事はないではないか!
民鉄(JR以外)では乗り換えに跨線橋や地下道をほとんど使う事無く同一方向への乗り換えができるのに(特に小田急)、なぜJRはできないのであろうか。島式ホーム2本の浜松や静岡などで、なぜそれができないのであろうか。少しでも早く目的地に到着したいのに、なせ乗り換える時間が多く取るのが優先され階段を使わせて別のホームへ移動させることを優先させるのであろうか。その分目的地に着くのが遅くなってしまうのであろう。私は実に納得がいかない内容であった。。
さて、東京より恒例の「大垣夜行」に乗った私は、大垣到着後人生で初めて大垣で跨線橋を使い米原行きに乗り換える、通称「大垣ダッシュ」を経験し、朝一番で心身共に疲れはててしまった。そんな疲労困憊の私は更に西へ向かい、途中神戸、姫路、岡山、広島、小郡、門司と乗り換えた。通常ならスルーするはずの「神戸」での乗り換えは、いわゆる「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真を撮影するためであるが、先発の列車でも神戸で一本遅らせても姫路から乗り換える列車が同じになるのでわざわさ神戸で下車し証明写真を撮影したとしても、ある意味後の行程には何の影響も無いわけだ。
2012年に訪問した新山口こと小郡。国鉄時代には観光用にSL運転され話題になり現在に至っている。、行政的には山口市が小郡町と合併する事により現在の駅名となったが、かつての小郡駅時代は現在よりも更に複雑な構内配線であった。
岡山付近や広島付近ではちょうど帰宅時間帯にぶつかり、私達の座席も他の乗客と相席になり、直立不動状態となってしまう場面もあったが、それ以外は概ね相席になることは無かった。
小郡(現・新山口)に着く頃には再び優雅な乗車率たなったが、次に乗り換える九州方面の列車が39分の待ち合わせがあるのは「新幹線に乗ってくれ(ha~ha)」と言わんばかりのダイヤ設定が見え隠れしなくもないようなイメージであった。そんな国鉄の期待に応えられないくらい頑なに普通列車に拘った私は、その39分待ちにひたすら耐え「18」のルールに敬意を表し、在来線を使うことにより国鉄の期待に応えたい気持ちに溢れていた。
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画像はウィキより拝借した大垣夜行。JRになってからはご覧のような「ムーンライトながら」として全席指定となり、国鉄時代の特急車両が充てられるようになった。レギュラーはJR東海の車両であったが、現在は定期便がなくなり、国鉄時代にデビューした185系が充てられ、臨時列車ながら近年まで生き残っていた。
過去に私はこの件についとJR東海にご意見したことがある。島式ホームがあるのだから同一ホームでの乗り換えがなぜできないのかと。大垣はともかく、静岡や浜松など明らかに東海道線以外の乗り換えが無いはずなのに、わざわざ跨線橋を使わせての乗り換えは、利用者にとってかなり不利なのではないかと。返ってきた答えは「乗り換え時間を充分に取っているのでご理解下さい」であった。とても残念な答えであった。
1978年に撮影した防府駅。寝台特急「富士」に乗車時に撮影したが、当時、東京発の寝台特急で「富士」は西日本ではなかなか渋い駅に停車した。今回は普通列車での通り道となったが、やはり「富士」が停車していた駅には何となく特別な思いを感じずにいられなかった。
そもそも多くの人はこの「乗り換え」「所要時間」を凄く気にするであろう。もちろん料金も気になるところではあるが、基本的には確保した座席は離れたくないし目的地まで早く到着したいものだ。それを、乗り換えが発生する上に跨線橋で歩かされ、なおかつ、座席の確保が不安な上所要時間がプラスせれる。これほどデメリットな事はないではないか!
民鉄(JR以外)では乗り換えに跨線橋や地下道をほとんど使う事無く同一方向への乗り換えができるのに(特に小田急)、なぜJRはできないのであろうか。島式ホーム2本の浜松や静岡などで、なぜそれができないのであろうか。少しでも早く目的地に到着したいのに、なせ乗り換える時間が多く取るのが優先され階段を使わせて別のホームへ移動させることを優先させるのであろうか。その分目的地に着くのが遅くなってしまうのであろう。私は実に納得がいかない内容であった。。
さて、東京より恒例の「大垣夜行」に乗った私は、大垣到着後人生で初めて大垣で跨線橋を使い米原行きに乗り換える、通称「大垣ダッシュ」を経験し、朝一番で心身共に疲れはててしまった。そんな疲労困憊の私は更に西へ向かい、途中神戸、姫路、岡山、広島、小郡、門司と乗り換えた。通常ならスルーするはずの「神戸」での乗り換えは、いわゆる「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真を撮影するためであるが、先発の列車でも神戸で一本遅らせても姫路から乗り換える列車が同じになるのでわざわさ神戸で下車し証明写真を撮影したとしても、ある意味後の行程には何の影響も無いわけだ。
2012年に訪問した新山口こと小郡。国鉄時代には観光用にSL運転され話題になり現在に至っている。、行政的には山口市が小郡町と合併する事により現在の駅名となったが、かつての小郡駅時代は現在よりも更に複雑な構内配線であった。
岡山付近や広島付近ではちょうど帰宅時間帯にぶつかり、私達の座席も他の乗客と相席になり、直立不動状態となってしまう場面もあったが、それ以外は概ね相席になることは無かった。
小郡(現・新山口)に着く頃には再び優雅な乗車率たなったが、次に乗り換える九州方面の列車が39分の待ち合わせがあるのは「新幹線に乗ってくれ(ha~ha)」と言わんばかりのダイヤ設定が見え隠れしなくもないようなイメージであった。そんな国鉄の期待に応えられないくらい頑なに普通列車に拘った私は、その39分待ちにひたすら耐え「18」のルールに敬意を表し、在来線を使うことにより国鉄の期待に応えたい気持ちに溢れていた。
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<リバイバル> 1983年・春爛漫 <青春18> ①
2024-10-19
大変申し訳ないが、前回に引き続き今回も「リバイバル」という事で、青春18シリーズの第三弾をお送りしようと思う。今回は1983年春という事で、私が中学2年から3年へのステップアップする春休みになるわけだが、今回はなんと青春18を使い東京から遥々西鹿児島(当時)まで行ってしまった!という旅を紹介したい。既に過去に紹介しているのでご存知の方も多々おられると思うが、とにかく今回は過去の経験を活かし、進化した自分を確認する事ができる旅となった。ただ、今考えれば、現地まで新幹線などを使えば北九州のローカル線各種や宮之城線、そして山野線や大隅線、更には妻線など、華麗に散っていった勇者の姿も確認できたという事であるが、なにせ中学生のため経済的な事情とも相談しなければならず、「18」ならではの列車制限のある旅になってしまった。もちろん、夏休みなら「18」を2部購入するという手もあったが例え夏休みであったとしても、そうした選択肢は私の頭の中には浮かばなかったあたり、まだまだアマちゃんだったのかも知れない。という事で、なぜ鹿児島なのか・・・という事はこの後すぐにお伝えする事になる。
画像はウィキより拝借した鹿児島交通。廃止直前は台風による被害を受けて一部で不通区間が出た。その後復旧することなく全線廃止となったが、私の訪問時は最初に発表された廃止日である1983年3月31日であった。
鹿児島交通廃止!の情報を風の噂で察知した私は早速訪問予定を組むことにした。廃止予定日は1983年3月31日と発表されたが、結果的に沿線住民などとのやり取りもあり廃止は延期された。ただ、あくまで「延期」であり、結果的に後日その運命を免れない「Xデー」がやって来る事になるわけであるのだが、私は延期の事実を知らされないまま「Xデー」に鹿児島に着くよう予定を組んだ。その計画であるが、なんと「青春18」で鹿児島入りするという無謀な計画を立案した!参加者は私と、前回・前々回と私と旅を共にした「鉄道研究クラブ」の部員1名の合計2名での出陣である。ということで、中学2年から3年にステップアップする春休みに今回も「部活」ではなくあくまで「個人」の旅が始まった。
現在はJR東海の所属となった静岡。いわゆる「大垣夜行」の到着の際は「べんと~~っ!」の掛け声とともに駅弁を売りに来るのは地味に有名かも知れない光景であった。
あくまでも「個人の旅」の為、相方は私の家に自転車を停め、いつものように相模線は西寒川駅より出発し「大垣夜行」に乗る恒例の行程となった。もちろん、前回紹介したように現在のような「ムーンライトながら」的な風景ではなく、グリーン車以外は全て自由席のため東京駅で約3時間待ち座席を確保する。たが今回も二人旅の為、ボックス席には面識のない二人と同席となるのは重々理解していた。
ということで、いつものように東京を出発した165系の大垣夜行であるが、途中、東海地区は快速となり主要駅のみの停車となる。だが「18」による長旅は既に3回目となり大垣夜行の勝手もわかるようになってきたし旅の術も身につけ慣れたものになってきた。全く生意気になったものだ。
「大垣ダッシュ」の次に乗り換えがやってくる米原。ただ、ここでは北陸方面への乗り換えもあるためいささかリスクは分散されるイメージであるが、実際はいかに・・・
大垣夜行は先述通り、途中、東海地区では主要駅のみ停車する快速的運転となるが、名古屋付近にちょうど良い時間に到着するよう途中駅で時間調整する。そのため静岡や浜松等での停車時間が長い。更にその停車時間にフレートライナー等の貨物列車にガンガン抜かれる。
私たちは旅の初日の為、夜行列車では当然興奮状態で熟睡できないが、特に途中の静岡では深夜の時間帯なのになぜか駅弁を売りに来る!この駅弁は私にとって憧れのアイドル的存在だった。たが、当時中学生の私にはかなりの高嶺の花のため今一歩が踏み出せない。そう思うと尚更腹の虫が泣いてくる。それと一緒に売っているポリ容器に入った暖かいお茶もまた美味いであろう。残念ながら静岡の駅弁購入は夢に破れてしまったが、誰もが憧れる(?)素敵な「嗜好品」ではなかろうか。
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画像はウィキより拝借した鹿児島交通。廃止直前は台風による被害を受けて一部で不通区間が出た。その後復旧することなく全線廃止となったが、私の訪問時は最初に発表された廃止日である1983年3月31日であった。
鹿児島交通廃止!の情報を風の噂で察知した私は早速訪問予定を組むことにした。廃止予定日は1983年3月31日と発表されたが、結果的に沿線住民などとのやり取りもあり廃止は延期された。ただ、あくまで「延期」であり、結果的に後日その運命を免れない「Xデー」がやって来る事になるわけであるのだが、私は延期の事実を知らされないまま「Xデー」に鹿児島に着くよう予定を組んだ。その計画であるが、なんと「青春18」で鹿児島入りするという無謀な計画を立案した!参加者は私と、前回・前々回と私と旅を共にした「鉄道研究クラブ」の部員1名の合計2名での出陣である。ということで、中学2年から3年にステップアップする春休みに今回も「部活」ではなくあくまで「個人」の旅が始まった。
現在はJR東海の所属となった静岡。いわゆる「大垣夜行」の到着の際は「べんと~~っ!」の掛け声とともに駅弁を売りに来るのは地味に有名かも知れない光景であった。
あくまでも「個人の旅」の為、相方は私の家に自転車を停め、いつものように相模線は西寒川駅より出発し「大垣夜行」に乗る恒例の行程となった。もちろん、前回紹介したように現在のような「ムーンライトながら」的な風景ではなく、グリーン車以外は全て自由席のため東京駅で約3時間待ち座席を確保する。たが今回も二人旅の為、ボックス席には面識のない二人と同席となるのは重々理解していた。
ということで、いつものように東京を出発した165系の大垣夜行であるが、途中、東海地区は快速となり主要駅のみの停車となる。だが「18」による長旅は既に3回目となり大垣夜行の勝手もわかるようになってきたし旅の術も身につけ慣れたものになってきた。全く生意気になったものだ。
「大垣ダッシュ」の次に乗り換えがやってくる米原。ただ、ここでは北陸方面への乗り換えもあるためいささかリスクは分散されるイメージであるが、実際はいかに・・・
大垣夜行は先述通り、途中、東海地区では主要駅のみ停車する快速的運転となるが、名古屋付近にちょうど良い時間に到着するよう途中駅で時間調整する。そのため静岡や浜松等での停車時間が長い。更にその停車時間にフレートライナー等の貨物列車にガンガン抜かれる。
私たちは旅の初日の為、夜行列車では当然興奮状態で熟睡できないが、特に途中の静岡では深夜の時間帯なのになぜか駅弁を売りに来る!この駅弁は私にとって憧れのアイドル的存在だった。たが、当時中学生の私にはかなりの高嶺の花のため今一歩が踏み出せない。そう思うと尚更腹の虫が泣いてくる。それと一緒に売っているポリ容器に入った暖かいお茶もまた美味いであろう。残念ながら静岡の駅弁購入は夢に破れてしまったが、誰もが憧れる(?)素敵な「嗜好品」ではなかろうか。
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<リバイバル> 1982年・青春18、何も言えなくて・・・夏⑧
2024-10-12
前回乗車した下りの「山陰」は始発の京都より満員御礼であったが、今回の出雲市より乗車する上り「山陰」はそれなりに待ち客はいたものの、若干空席があった。ひとり・ふたりなら途中駅からでも余裕で座席を確保できたイメージであった。
現に松江や先ほどまでいた米子で乗客の入れ替りが若干あり、途中駅からでもいけるだろうという法則みたいなものが私の中でジワジワと沸き上がってきた。
以前にも紹介したが大垣駅の入場券は近鉄(当時)と駅を共用していたので80円と格安であった。大垣からは美濃赤坂支線と樽見線を制覇。樽見線と言えば現在も「樽見鉄道」として第三セクターで運営されている。しかも神海~樽見が延伸され、私の訪問時より姿が変わった。当時は「美濃神海」として樽見線の終点であった棒線の神海駅も、現在は交換可能駅として生まれ変わった。
さて、上り「山陰」で京都に向かうが、途中餘部橋梁や保津峡を通過するが、深夜の時間帯になるためそうした車窓の彩りを感じる事ができない。いや、鉄道以外に興味を示さなかった当時の少年、つまり私はそうした雄大な風景よりも駅設備を最優先順位に考えていたため、側線やホームの数や駅舎の造り、そして昔の名残を探す事が最重要課題となる。そうした山陰本線特有の持ち味を感じないまま京都の到着は翌朝5時24分だ。そして5時28分発の東海道線上り普通列車に乗り換えなければならず、二条辺りから既にそわそわしていた。しかし、京都という大都会のターミナルで乗り換え時間が僅か4分とは!普通に考えたら4分の乗り換え時間はある意味余裕が感じらるであろう。だが、レールファンであるがゆえに京都駅の事情は残念ながら多少の知識はあった。しかも時刻表を見れば駅構造もしっかりと記されている。故にその事がかえって私をブルーにさせた。
(懐かしさ満点の3代目京都駅舎はウィキより画像を拝借した。国鉄時代を含め私の京都駅はこのイメージが強い。現在はすっかりモダンになったが、一時期は「のぞみ」が通過する場面もあった。)
京都駅・・・レールファンなら事情はご存じであろうが、あえてここで説明しよう(タイムボカンではないが)。
京都駅の1番線、現在の0番線ホームは当時日本一の長さであり、現在の山陰ホームである30番線以降とつながっているが、当時の山陰ホームは「山陰1(番線)」「山陰2(番線)」とよばれ当時の1番線とつながっていたため500m以上あったのだ。つまり、内容的に現在とほぼ変わらないが、とにかく長い!これは前もって先頭に移動して少しでも移動時間を減らす努力をしなければならないのだ。ただ、乗り換える東海道線が1番線なら跨線橋を使わなくて済む。この時は乗り換える列車が1番線発だったので超助かったが、例えば9番線とかであったならどうなっていたであろう。
現在は山陰ホームが増設され電化された事で大きく変貌したが、当時は島式ホーム一本であり、普通列車は旧型客車の運用がほとんどであったから、山陰ホームへ来ると一気にローカルムードを感じる事になる。。
そんな「日本一」のホームから、もし跨線橋を使い別のホームにいる東海道線に乗り換えるなんて、せめて同一ホームにしてくれよと言いたくなるようなダッシュをしなければ座席確保ができないであろう。
特に現在の東海道線・静岡や浜松あたりでは階段を使う乗り換えが多いので何度かご意見申した事がある。もちろんJR側の都合もあろうができれば島式ホーム上での乗り換えにして欲しい。しかし「乗り換え時間を充分に取っているのでご理解いただきたい」という内容の回答ではやや納得がいかなかった。乗り換えに時間を多く取り階段を使うというのが問題であって、何とか階段を使わずに乗り換え時間を短くして先に進みたいものだ。特に車椅子等を利用している方にすれば「階段を使う」事が果たしてマッチングしているかどうかであろう。
現に、東北新幹線などでは在来線への塗り乗り換え時間を短縮する意味もあり在来線直通形新幹線(いわゆるミニ新幹線)が発展したという事もある。つまり「座席を離れる」「階段を使う」ということは、利用者にとって一番避けたい項目であり、乗り換える場面では一番重要なテーマでもあるのだ。
そんな重要なテーマを抱えながら、厳しい現実の中、京都に着く頃には座席を捨てデッキに出てスタンバイしておこうと、旅慣れない少年なりに知恵を振り絞っていた。
(国鉄時代は終点であった現在の神海駅。当時は棒線化されていたが、当然島式ホームに備えた空間が準備されていた。しかし、まさか本当に延伸されるとは思いもしなかった。)
京都に到着すると、命をかけたダッシュが始まり東海道線の次の列車を探す。ダッシュの甲斐があって座席は何とか確保できた。何とか確保できたが、その後安心しきったのか、超爆睡状態で大垣に向かう事になった。
そして大垣に着く直前に目が覚め、しっかり大垣より樽見線、更に東海道支線の美濃赤坂までを制覇した。特に樽見線は廃止情報が流れており、乗車意欲が湧いてしまうため寝てなどいられない。訪問当時は美濃神海が終点であったが、現在は周知の通り、経営母体は変わったものの、樽見まで延伸された。まさか延伸されるとは思わなかったが、旅客のみでの経営ではなかなか辛い風景となろう。
大垣からは樽見線、東海道支線どちらの順番でも再び大垣に戻ってくる時間はそれほど変わらなかった記憶であったが、美濃赤坂への支線が「東海道」を名乗る辺り、なかなかの渋さを感じる。しかしながら私はその渋さや歴史を重要とせず、ひたすら乗りつぶしを慣行する少年でった。
大垣は近鉄を含め数多くの分岐を持つ駅として幼い頃から非常に興味があった。「幼い頃」という表現は適当ではないかも知れないが、「いつかは駅の配線を解読したい!」と常々考えていたものだ。というより、こんな事を考えてる少年はハッキリ言って「普通」というカテゴリーには入りにくいであろうと今になって感じるのだが・・・
そんな大垣での小さな旅が一段落を終え、後は東海道で湘南地区に帰郷するのみとなった。大垣からは117系快速で一気に浜松へ。 そして更に東へ向かい、跨線橋を使う乗り換えをいくつか慣行しながら湘南目指して・・・
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現に松江や先ほどまでいた米子で乗客の入れ替りが若干あり、途中駅からでもいけるだろうという法則みたいなものが私の中でジワジワと沸き上がってきた。
以前にも紹介したが大垣駅の入場券は近鉄(当時)と駅を共用していたので80円と格安であった。大垣からは美濃赤坂支線と樽見線を制覇。樽見線と言えば現在も「樽見鉄道」として第三セクターで運営されている。しかも神海~樽見が延伸され、私の訪問時より姿が変わった。当時は「美濃神海」として樽見線の終点であった棒線の神海駅も、現在は交換可能駅として生まれ変わった。
さて、上り「山陰」で京都に向かうが、途中餘部橋梁や保津峡を通過するが、深夜の時間帯になるためそうした車窓の彩りを感じる事ができない。いや、鉄道以外に興味を示さなかった当時の少年、つまり私はそうした雄大な風景よりも駅設備を最優先順位に考えていたため、側線やホームの数や駅舎の造り、そして昔の名残を探す事が最重要課題となる。そうした山陰本線特有の持ち味を感じないまま京都の到着は翌朝5時24分だ。そして5時28分発の東海道線上り普通列車に乗り換えなければならず、二条辺りから既にそわそわしていた。しかし、京都という大都会のターミナルで乗り換え時間が僅か4分とは!普通に考えたら4分の乗り換え時間はある意味余裕が感じらるであろう。だが、レールファンであるがゆえに京都駅の事情は残念ながら多少の知識はあった。しかも時刻表を見れば駅構造もしっかりと記されている。故にその事がかえって私をブルーにさせた。
(懐かしさ満点の3代目京都駅舎はウィキより画像を拝借した。国鉄時代を含め私の京都駅はこのイメージが強い。現在はすっかりモダンになったが、一時期は「のぞみ」が通過する場面もあった。)
京都駅・・・レールファンなら事情はご存じであろうが、あえてここで説明しよう(タイムボカンではないが)。
京都駅の1番線、現在の0番線ホームは当時日本一の長さであり、現在の山陰ホームである30番線以降とつながっているが、当時の山陰ホームは「山陰1(番線)」「山陰2(番線)」とよばれ当時の1番線とつながっていたため500m以上あったのだ。つまり、内容的に現在とほぼ変わらないが、とにかく長い!これは前もって先頭に移動して少しでも移動時間を減らす努力をしなければならないのだ。ただ、乗り換える東海道線が1番線なら跨線橋を使わなくて済む。この時は乗り換える列車が1番線発だったので超助かったが、例えば9番線とかであったならどうなっていたであろう。
現在は山陰ホームが増設され電化された事で大きく変貌したが、当時は島式ホーム一本であり、普通列車は旧型客車の運用がほとんどであったから、山陰ホームへ来ると一気にローカルムードを感じる事になる。。
そんな「日本一」のホームから、もし跨線橋を使い別のホームにいる東海道線に乗り換えるなんて、せめて同一ホームにしてくれよと言いたくなるようなダッシュをしなければ座席確保ができないであろう。
特に現在の東海道線・静岡や浜松あたりでは階段を使う乗り換えが多いので何度かご意見申した事がある。もちろんJR側の都合もあろうができれば島式ホーム上での乗り換えにして欲しい。しかし「乗り換え時間を充分に取っているのでご理解いただきたい」という内容の回答ではやや納得がいかなかった。乗り換えに時間を多く取り階段を使うというのが問題であって、何とか階段を使わずに乗り換え時間を短くして先に進みたいものだ。特に車椅子等を利用している方にすれば「階段を使う」事が果たしてマッチングしているかどうかであろう。
現に、東北新幹線などでは在来線への塗り乗り換え時間を短縮する意味もあり在来線直通形新幹線(いわゆるミニ新幹線)が発展したという事もある。つまり「座席を離れる」「階段を使う」ということは、利用者にとって一番避けたい項目であり、乗り換える場面では一番重要なテーマでもあるのだ。
そんな重要なテーマを抱えながら、厳しい現実の中、京都に着く頃には座席を捨てデッキに出てスタンバイしておこうと、旅慣れない少年なりに知恵を振り絞っていた。
(国鉄時代は終点であった現在の神海駅。当時は棒線化されていたが、当然島式ホームに備えた空間が準備されていた。しかし、まさか本当に延伸されるとは思いもしなかった。)
京都に到着すると、命をかけたダッシュが始まり東海道線の次の列車を探す。ダッシュの甲斐があって座席は何とか確保できた。何とか確保できたが、その後安心しきったのか、超爆睡状態で大垣に向かう事になった。
そして大垣に着く直前に目が覚め、しっかり大垣より樽見線、更に東海道支線の美濃赤坂までを制覇した。特に樽見線は廃止情報が流れており、乗車意欲が湧いてしまうため寝てなどいられない。訪問当時は美濃神海が終点であったが、現在は周知の通り、経営母体は変わったものの、樽見まで延伸された。まさか延伸されるとは思わなかったが、旅客のみでの経営ではなかなか辛い風景となろう。
大垣からは樽見線、東海道支線どちらの順番でも再び大垣に戻ってくる時間はそれほど変わらなかった記憶であったが、美濃赤坂への支線が「東海道」を名乗る辺り、なかなかの渋さを感じる。しかしながら私はその渋さや歴史を重要とせず、ひたすら乗りつぶしを慣行する少年でった。
大垣は近鉄を含め数多くの分岐を持つ駅として幼い頃から非常に興味があった。「幼い頃」という表現は適当ではないかも知れないが、「いつかは駅の配線を解読したい!」と常々考えていたものだ。というより、こんな事を考えてる少年はハッキリ言って「普通」というカテゴリーには入りにくいであろうと今になって感じるのだが・・・
そんな大垣での小さな旅が一段落を終え、後は東海道で湘南地区に帰郷するのみとなった。大垣からは117系快速で一気に浜松へ。 そして更に東へ向かい、跨線橋を使う乗り換えをいくつか慣行しながら湘南目指して・・・
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