歴史を歩く216
44第二次世界大戦
6連合国の勝利(連合軍の優位)
第二次世界大戦は、1942年夏頃迄は、枢軸国(日独伊三国同盟側に属した諸国)側が優勢でしたが、1942年6月のミッドウェー海戦と、1942年8月に始まったスターリングラード攻防戦、1942年7月及び10月のエル・アラメインの戦いを契機として連合国側が反撃に転じて行きます。

アメリカ海軍ダグラスSBDドーントレス艦上爆撃機
1942年6月、中部太平洋で戦われたミッドウェー海戦で日本海軍は主力空母4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)とその艦載機290機・ベテラン兵員約3500名を喪失して惨敗しました。(日本国内では、大本営発表の大勝利と報道された)
ミッドウェー海戦の勝利によって太平洋戦線の主導権を握ったアメリカ軍は、同年8月ガダルカナル島への上陸作戦を展開し、ガダルカナルの確保に全力をあげた日本軍はアメリカ軍と死闘(ガダルカナルの戦いは同島を餓島と呼ぶ程に悲惨な戦闘でした)を繰り返しますが、制空権を奪われていた日本軍は大損害を被り1943年2月にガダルカナルを撤退(転進)し、以後敗退を重ねていきます。

スターリングラード攻防戦で廃墟と化した市内
一方、独ソ戦の長期化によって石油の確保が不可欠となったドイツは、夏季攻勢の目標をバクー油田等コーカサス地方の油田の確保(ブラウ作戦)に置き、ヴォルガ河畔の重要都市であるスターリングラードの占領を試みます。
1942年8月22日、ドイツ軍(第6軍)はスターリングラード(現ボルゴグラード)に総攻撃を開始してこれを包囲し、9月には市内に突入して激しい市街戦を展開しますが、当に建物の各階を一階づつ、又地下道の一本、一本を制圧する戦闘が続き、両軍の犠牲は増える一方でした。
11月になると猛吹雪の中でソ連軍は大反撃(ウラヌス作戦)を開始し、逆にドイツ軍の包囲に成功しました。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・パウルス(Friedrich Wilhelm Ernst Paulus, 1890年9月23日 - 1957年2月1日)
ドイツ軍司令官フリードリヒ・パウルス大将はスターリングラードから撤退し、戦線を立て直す事をヒトラーに進言しますが、ヒトラーは頑として退却を認めず、スターリングラードの死守を命じ、一方ソ連軍は翌年1月に2度にわたってドイツ軍に降伏を勧告しますが、ヒトラーは降伏を許可せず、ソ連軍の猛攻によって約30万のドイツ軍は壊滅し、1943年2月初頭ドイツ軍司令官パウルス元帥(1月30日元帥昇格)は約9万の将兵と共に降伏しますが、このスターリングラード攻防戦は第二次世界大戦の転機となり以後ドイツ軍の敗退が始まったのです。

北アフリカ戦線のドイツ軍2号戦車
これより先、連合国は1942年10月から北アフリカで反撃を開始していました。
アメリカよりレンドリース法により300両のM4シャーマン戦車と大量の航空機の援助を得たモントゴメリー将軍指揮下の連合国軍はエル・アラメイン(アレクサンドリアの西方)でロンメル将軍指揮下の独・伊軍機甲部隊(当時ロンメル指揮下のドイツ軍戦車は90両余り、イタリア軍戦車は130両程)を撃破、ドイツ勢力をエジプトから駆逐し、更に進撃を続けて翌年1月にはトリポリを奪回、一方アイゼンハウアー将軍(後の第34代米大統領)指揮下の連合国軍は、アルジェリア・モロッコに上陸し、モントゴメリー軍と呼応して独・伊軍を東西から挟撃する作戦を行います。
連合国軍は1943年5月にはチュニジアを占領、北アフリカの独・伊軍が降伏し、北アフリカ戦線は米英連合軍の勢力圏になりました。
この様なドイツ軍敗走の裏には、同時に進行していた、スターリングラード戦に軍需物資を最優先した事、機甲部隊の生命線である燃料の確保が、戦域の拡大から十分に行われ無かった事が影響しています。

ハスキー作戦・上陸用舟艇のアメリカ軍
北アフリカを奪回した連合国軍は、1943年7月10日にシチリア島に上陸・占領(ハスキー作戦)し、更にイタリア本土に迫ります。
こうした状況の中でイタリアでは、1943年7月24日にファシスト大評議会が開催され、立憲王制への復帰とムッソリーニの統帥権剥奪が決議され、翌日、ムッソリーニは国王によって首相を解任され、逮捕・投獄され、バドリオ(1871年~1956年、エチオピア侵入の総司令官)政権が成立し、ファシスト党は非合法化されます。

グラン・サッソ襲撃・ドイツ空挺部隊に救出されたムッソリーニ
1943年9月、連合国軍がイタリア本土に上陸すると、バドリオ政権は9月3日に連合国と休戦条約を結び、1943年9月8日に無条件降伏しますが、これに対してヒトラーはドイツ軍にイタリア中部・北部を占領させると共に、ムッソリーニを獄舎から救出(グラン・サッソ襲撃・9月12日)し、北イタリアにムッソリーニを首班とする「ファシスト共和国」を樹立させますが、ファシスト共和国は戦争継続を宣言した結果、以後イタリアは二分されるものの、既に戦争遂行力は急速に弱体化し、ムッソリーニは、1945年4月28日にスイス国境のコモ湖付近でパルチザンによって拘束、銃殺され、遺体はミラノのロレータ広場にその側近や、愛人のクラ-ラ・ペタッチ等共に逆さに吊るされる事態が発生します。
(当時クラーラ・ペタッチは、ファシスト党員等の資格を有しておらず、その身分は民間人であり、処刑は後に問題となります)

大西洋上会談・艦上のルーズベルトとチャーチル
連合国は既に1941年に戦後の構想を示していました。
独ソ戦開始による戦争の拡大を前にアメリカのローズヴェルト大統領とイギリスのチャーチル首相は大西洋上のイギリス海軍戦艦プリンス・オブ・ウェールズで会談を行い(大西洋上会談)、1941年8月に大西洋憲章を発表し、全8条からなる大西洋憲章では領土不拡大・領土不変更・民族自決・貿易の自由と拡大・労働条件と社会保障の改善・海洋の自由・軍備縮小・平和機構の再建が謳われていました。
太平洋戦争が始まると、連合国26カ国は大西洋憲章に基づいて連合国共同宣言を発表し(1942年1月)、第二次世界大戦の戦争目的をファシズムに対する民主主義の戦いと位置づけたのです。
続く・・・
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ジロくんの思い出:平成29年9月26日門司区自宅
6連合国の勝利(連合軍の優位)
第二次世界大戦は、1942年夏頃迄は、枢軸国(日独伊三国同盟側に属した諸国)側が優勢でしたが、1942年6月のミッドウェー海戦と、1942年8月に始まったスターリングラード攻防戦、1942年7月及び10月のエル・アラメインの戦いを契機として連合国側が反撃に転じて行きます。

アメリカ海軍ダグラスSBDドーントレス艦上爆撃機
1942年6月、中部太平洋で戦われたミッドウェー海戦で日本海軍は主力空母4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)とその艦載機290機・ベテラン兵員約3500名を喪失して惨敗しました。(日本国内では、大本営発表の大勝利と報道された)
ミッドウェー海戦の勝利によって太平洋戦線の主導権を握ったアメリカ軍は、同年8月ガダルカナル島への上陸作戦を展開し、ガダルカナルの確保に全力をあげた日本軍はアメリカ軍と死闘(ガダルカナルの戦いは同島を餓島と呼ぶ程に悲惨な戦闘でした)を繰り返しますが、制空権を奪われていた日本軍は大損害を被り1943年2月にガダルカナルを撤退(転進)し、以後敗退を重ねていきます。

スターリングラード攻防戦で廃墟と化した市内
一方、独ソ戦の長期化によって石油の確保が不可欠となったドイツは、夏季攻勢の目標をバクー油田等コーカサス地方の油田の確保(ブラウ作戦)に置き、ヴォルガ河畔の重要都市であるスターリングラードの占領を試みます。
1942年8月22日、ドイツ軍(第6軍)はスターリングラード(現ボルゴグラード)に総攻撃を開始してこれを包囲し、9月には市内に突入して激しい市街戦を展開しますが、当に建物の各階を一階づつ、又地下道の一本、一本を制圧する戦闘が続き、両軍の犠牲は増える一方でした。
11月になると猛吹雪の中でソ連軍は大反撃(ウラヌス作戦)を開始し、逆にドイツ軍の包囲に成功しました。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・パウルス(Friedrich Wilhelm Ernst Paulus, 1890年9月23日 - 1957年2月1日)
ドイツ軍司令官フリードリヒ・パウルス大将はスターリングラードから撤退し、戦線を立て直す事をヒトラーに進言しますが、ヒトラーは頑として退却を認めず、スターリングラードの死守を命じ、一方ソ連軍は翌年1月に2度にわたってドイツ軍に降伏を勧告しますが、ヒトラーは降伏を許可せず、ソ連軍の猛攻によって約30万のドイツ軍は壊滅し、1943年2月初頭ドイツ軍司令官パウルス元帥(1月30日元帥昇格)は約9万の将兵と共に降伏しますが、このスターリングラード攻防戦は第二次世界大戦の転機となり以後ドイツ軍の敗退が始まったのです。

北アフリカ戦線のドイツ軍2号戦車
これより先、連合国は1942年10月から北アフリカで反撃を開始していました。
アメリカよりレンドリース法により300両のM4シャーマン戦車と大量の航空機の援助を得たモントゴメリー将軍指揮下の連合国軍はエル・アラメイン(アレクサンドリアの西方)でロンメル将軍指揮下の独・伊軍機甲部隊(当時ロンメル指揮下のドイツ軍戦車は90両余り、イタリア軍戦車は130両程)を撃破、ドイツ勢力をエジプトから駆逐し、更に進撃を続けて翌年1月にはトリポリを奪回、一方アイゼンハウアー将軍(後の第34代米大統領)指揮下の連合国軍は、アルジェリア・モロッコに上陸し、モントゴメリー軍と呼応して独・伊軍を東西から挟撃する作戦を行います。
連合国軍は1943年5月にはチュニジアを占領、北アフリカの独・伊軍が降伏し、北アフリカ戦線は米英連合軍の勢力圏になりました。
この様なドイツ軍敗走の裏には、同時に進行していた、スターリングラード戦に軍需物資を最優先した事、機甲部隊の生命線である燃料の確保が、戦域の拡大から十分に行われ無かった事が影響しています。

ハスキー作戦・上陸用舟艇のアメリカ軍
北アフリカを奪回した連合国軍は、1943年7月10日にシチリア島に上陸・占領(ハスキー作戦)し、更にイタリア本土に迫ります。
こうした状況の中でイタリアでは、1943年7月24日にファシスト大評議会が開催され、立憲王制への復帰とムッソリーニの統帥権剥奪が決議され、翌日、ムッソリーニは国王によって首相を解任され、逮捕・投獄され、バドリオ(1871年~1956年、エチオピア侵入の総司令官)政権が成立し、ファシスト党は非合法化されます。

グラン・サッソ襲撃・ドイツ空挺部隊に救出されたムッソリーニ
1943年9月、連合国軍がイタリア本土に上陸すると、バドリオ政権は9月3日に連合国と休戦条約を結び、1943年9月8日に無条件降伏しますが、これに対してヒトラーはドイツ軍にイタリア中部・北部を占領させると共に、ムッソリーニを獄舎から救出(グラン・サッソ襲撃・9月12日)し、北イタリアにムッソリーニを首班とする「ファシスト共和国」を樹立させますが、ファシスト共和国は戦争継続を宣言した結果、以後イタリアは二分されるものの、既に戦争遂行力は急速に弱体化し、ムッソリーニは、1945年4月28日にスイス国境のコモ湖付近でパルチザンによって拘束、銃殺され、遺体はミラノのロレータ広場にその側近や、愛人のクラ-ラ・ペタッチ等共に逆さに吊るされる事態が発生します。
(当時クラーラ・ペタッチは、ファシスト党員等の資格を有しておらず、その身分は民間人であり、処刑は後に問題となります)

大西洋上会談・艦上のルーズベルトとチャーチル
連合国は既に1941年に戦後の構想を示していました。
独ソ戦開始による戦争の拡大を前にアメリカのローズヴェルト大統領とイギリスのチャーチル首相は大西洋上のイギリス海軍戦艦プリンス・オブ・ウェールズで会談を行い(大西洋上会談)、1941年8月に大西洋憲章を発表し、全8条からなる大西洋憲章では領土不拡大・領土不変更・民族自決・貿易の自由と拡大・労働条件と社会保障の改善・海洋の自由・軍備縮小・平和機構の再建が謳われていました。
太平洋戦争が始まると、連合国26カ国は大西洋憲章に基づいて連合国共同宣言を発表し(1942年1月)、第二次世界大戦の戦争目的をファシズムに対する民主主義の戦いと位置づけたのです。
続く・・・
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ジロくんの思い出:平成29年9月26日門司区自宅