「哀(あはれ)なる哉(かな)、武将に備て二十五年、向(むか)ふところは必ず順(まつら)ふといへども、無常(むじょう)の敵の来たるをば防ぐにその兵なし。悲しい哉、天下を治めて六十余州、命(めい)に随(したが)ふ者多しといへども、有為(うい)の境を辞するには伴(ともなう)て行く人もなし。身は忽(たちまち)に化して暮天数片(ぼてんすうへん)の煙と立ち上り、骨は空(むなし)く留(とどめ)て卵塔一掬(らんとういっきく)の塵(ちり)と成りにけり。」(『太平記』巻三十三 足利尊氏の葬儀)
奈良県奈良市の春日大社(かすがたいしゃ)と天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)に行きました。
春日大社は奈良時代創建の比較的新しい神社です。平城京鎮護(ちんご)を目的とし、各地に祀られていた藤原の氏神を一所に集めた形となりました。
その勧請(かんじょう)の際鹿島神が白鹿に乗って来たとされ、鹿が神使として敬重される由縁(ゆえん)となりました。マンガ・アニメ「しかのこのこのここしたんたん」が好きな方は、一度遊びに来てみてはいかがでしょうか。
第一殿 鹿島神宮(常陸国一宮)より武甕槌(タケミカヅチ)
第二殿 香取神宮(下総国一宮)より経津主(フツヌシ)
第三殿 枚岡神社(河内国一宮)より天児屋根(アメノコヤネ)
第四殿 枚岡神社(河内国一宮)より比売神(ヒメガミ)
本殿はこれら四棟で成り立っており、四柱を合わせて春日大神としたのです。東西一宮(いちのみや)の神を掛け合わせたハイブリッド神社です。ここ自体は一宮でないものの、時代が下るにつれ霊験あらたかとされたのも無理はありません(備考 三社託宣)。とくに戦神タケミカヅチ・フツヌシを擁したため、台頭してきた武士達に篤く尊崇されました。
タケミカヅチ・フツヌシは日本神話「国譲り(葦原中国平定)」で登場します。昔々日本の天界は高天原(たかまがはら)といって天津神(あまつかみ)達が治めており、日本の地上界は葦原中国(あしはらのなかつくに)といい国津神(くにつかみ)達が治めていました。
そうした中、天津神の代表アマテラス・タカミムスビは、葦原中国の大元じめ大国主(オオクニヌシ)に統治権の譲渡(じょうと)を迫(せま)ります。
天界から地上の大国主のもとへ派遣されたのが、タケミカヅチ・フツヌシでした。ここで記紀の記述に相違が出てきます。遣(つか)わされた神が異なっているのです。
日本書紀は、主将 経津主(フツヌシ) 副将 武甕槌(タケミカヅチ)
古事記は、主将 建御雷(タケミカヅチ) 副将 天鳥船(アメノトリフネ)
記紀の相違は珍しくもありませんが、それでも気になります。私なりの解決のヒントが石上神宮にありました。
石上神宮は春日大社よりもずっと古い歴史を持ちます。ご神体は布都御魂(フツノミタマ)という伝説上の霊剣です。このフツノミタマの神格がフツヌシだという説があるのです。
だとすれば、記紀の相違はこう説明できます。「神剣を携えた武人」を描いたのが日本書紀であり、「武人が舟に乗って天下る」様子を描いたのが古事記であると。
古事記でも出雲稲佐(いずもいなさ)の浜に降り立ったタケミカヅチは、「十掬(とつか)の剣」(これがフツノミタマとされる)を海に逆さまに刺し、その切先の上にあぐらをかいて大国主を威圧します。武力を誇示(こじ)しながら勅命(ちょくめい)を伝えたのですね。
さて私はこのシーンを読んで実際春日大社を訪れたとき、思いを馳(は)せずにはいられなかった歴史的事象があります。それは明治維新前夜、薩長に対峙(たいじ)した徳川将軍家のことでした。世界史的に見ても、大政奉還や江戸無血開城の類は珍しい。なぜこんな無私で厭戦(えんせん)的な移譲ができたのか不思議でなりません。
混乱の時代に、水戸学で育った最後の将軍は何を思ったのでしょう。朝敵(ちょうてき)の汚名や身内からの弱腰批判を浴びながら、慶喜(よしのぶ)はそれでも唯独り「国譲り」の言葉を反芻(はんすう)していたのではないでしょうか。
日本書紀巻第二神代下 国譲り
「如し吾れ防禦がましかば、国の内の諸神必ずまさに同じく禦ぎてむ。今我れ避り奉る、誰か復た敢て順はぬ者あらむ」
(もし私大国主が防衛の戦いを起こせば、国津神は必ず皆同じように戦うだろう。今私が率先して神避れば、無理に抗戦する者はいなくなるはずだ)
『国家の多難に際し閫外(こんがい)の重寄に膺(むね)り、時勢を察して政を致し皇師を迎えて誠を表し、恭順綏撫(きょうじゅんいんぶ)以て王政の復古に資す 。其の志洵(しじゅん)に嘉(よみ)すべし 。今や溘亡(こうぼう)を聞く。曷(いずくん)ぞ痛悼(つうとう)に勝(た)えん 。茲(ここ)に侍臣を遣わし、賻(ふ)を齎(もたら)して臨み弔(とむらわ)せしむ』(勅語 大正二年徳川慶喜の葬儀)